03-11-08 三晋 夷狄乱華

 巴西氐はさいていの「李特りとく」は流民としてしょく入りしたが、ひと月足らずで二万もの兵を率いるようになり広漢こうかんを実効支配した。そして成都せいとに攻撃を仕掛けるも、「羅尚らしょう」に敗れ、その首を斬られた。弟の「李流りりゅう」がそれに変わって立ち、軍は再び勢力を盛り返すも、まもなく李流も死亡した。さらに李特の息子の「李雄りゆう」が立つと、ついに羅尚を敗走させ、成都城入り。成都王を自称した。劉淵りゅうえん漢王かんおう自称と同年、307 年のことである。


 鮮卑せんぴ慕容廆ぼようかい武帝ぶていの時には既に頻繁に晋の領土を攻撃してきた。しかし降伏し、鮮卑都督に任じられていた。慕容廆は「慕容皝ぼようこう」を産み、遼東りょうとうから遼河りょうがを渡って大棘城たいきょくじょう入りし、恵帝けいていの時代にいたり、慕容部はいよいよ盛んとなった。


 鮮卑のうち拓跋たくばつ氏はその大人たいじん拓跋力微たくばつりょくび」の子弟が人質として晋にあった。いちど武帝が人質を拓跋部のもとに返すと、拓跋力微は再びその子に朝貢品を持たせ晋に差し出した。拓跋力微が死ぬと、「拓跋禄官たくばつろくかん」が立った。恵帝の時代になると拓跋部は国を三つに分けた。上谷の北を拓跋禄官自身が統治し、代郡だいぐん参合陂さんごうはの北を甥の「拓跋猗㐌たくばついい」に治めさせ、定襄ていじょう盛楽せいらくを拓跋猗㐌の弟、「拓跋猗盧たくばついろ」に治めさせた。

 この頃晋からも拓跋部に流れるものがやや出始めており、拓跋猗㐌は漠北に出ると西方諸国三十国あまりを征服して回った。拓跋氏の隆盛はここから始まる。


 夷狄乱華の災いはすでにかんしんの時代に萌芽しており、恵帝の時代に、ついに爆発したわけである。



蒙求もうぎゅう

詰汾興魏きつふんこうぎ 鼈靈王蜀べつれいおうしょく

拓跋詰汾(北魏)&鼈靈(蜀王本紀)

 北魏道武帝の遙かなる先祖、拓跋詰汾。彼が神霊よりの奇跡を得ることで生まれた拓跋力微が、その後の拓跋部の繁栄を興すこととなる。

 周の時代、蜀の地に王が立っていた。王たちの先祖は鼈靈といい、荊州の人だったが、死亡して楚の死体が何故か長江を遡上、蜀の地で復活。その地で王となり、以降代々統治した。

 地方の王の出身譚は異様。

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