03-11-09 三晋 懐帝司馬熾

 司馬顒しばぎょうによって皇太弟とされた司馬熾しばしは、そのまま皇帝となった。「懐帝かいてい」である。武帝ぶていには合計 25 人の子があったが、兄弟同士での殺し合いが続き、残ったのはわずか三人であった。司馬熾はそのうちの一人であった。元々学問を好んでいたため、皇帝に担ぎ上げられた。


 成都せいとで、李雄りゆうが皇帝を自称。国号をせいとした。


 匈奴漢きょうどかんによるしんへの攻撃の中に、一人の勇将がいた。名は石勒せきろくけつ人である。晋がまだ平和であったころ洛陽らくように出向き、東門とうもんにて一人歌をうたっていた。その様子を晋の名士である王衍おうえんに見つかった。王衍は石勒のただならぬ存在感に驚き、「あのような者がのちに害をなすに違いない」と語っていた。

 その見立ては正しかったわけである。



 司馬越しばえつは八王の乱を制覇こそしたものの、匈奴漢軍の対応のため、内外の防備を固めた上、石勒迎撃のため出陣した。しかし、その陣中で死亡。石勒軍は大将を失った司馬越軍を攻撃し、王衍らを捕らえた。

 王衍は石勒に言う。

「わしは官途に立つつもりはなかったのじゃ、世のことにもかかずらいもなりたくなかったのじゃ!」

 石勒は言う。

「色々なお方を見てきたが、いまだもってこのようなお方は知らぬ。これは生かしておいた方が良いのではないか」

 あるものが石勒に言う。

「やつは晋の王公、我らに協賛など致しますまい」

 石勒は答える。

「とは言え、剣にて殺すのも忍びない」

 そこで夜、人をやって土塀を押し倒し、圧死させた。



※さすがに曽先之そうせんしさんひどい。このシーン、王衍に対して石勒は「テメエみたいのが天下を荒らしたんじゃ!」って大喝してる。「このようなお方を見たことがない」は、王衍らの「ら」に含まれている、司馬範しばはん。石勒たちの前で堂々とした態度を崩さずにいたから、これは人物だ、と石勒が感嘆している。「なので助命したがった」。

 なるほどねー! 「ら」だもんねー! 嘘ではない、嘘ではないよねー! ねーーーー!!!



 劉聡りゅうそうは「呼延晏こえんあん」に兵を与えて洛陽を攻撃させた。劉曜りゅうよう、「王弥おうび」、石勒もまた洛陽攻めに合流。遂に洛陽は陥落し、懐帝は平陽へいように送られ、殺された。



蒙求もうぎゅう

王衍風鑑おうえんふうかん 許劭月旦きょしょうげつたん

 西晋を代表する名士のひとりである、王衍。まだ世が平和であったとき、石勒せきろくが洛陽にやってきていた。王衍は石勒を見て、「素性はわからないが、あやつのような者がのちに天下に災いをもたらすのだ」と断じ、殺そうとするも失敗。のちに無事殺された。

 後漢末の許劭は月旦、すなわち人物評価で名を知られていた。その月旦が曹操そうそうを見たときはじめ評価にも値しないとシカトを決め込んだが、直後に脅され、例の「治世の能臣、乱世の姦雄」評を語った。

 早い段階で姦雄を見抜いたふたり。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る