03-11-10 三晋 愍帝司馬鄴

 愍帝びんてい、名は司馬鄴しばぎょう武帝ぶていの息子のひとり「司馬晏しばあん」の子である。はじめ秦王しんおうに封じられていたが、匈奴漢きょうどかんによって洛陽らくようが攻め落とされると、「荀藩じゅんはん」によって旗印に掲げられ、許昌きょしょうに逃げ延びた。このとき 12 歳。

 そこにさらに「索綝さくりん」がやって来、長安ちょうあん入りした。このとき雍州刺史ようしゅうししであった「賈疋かひつ」らは司馬鄴を皇太子とし、仮政府を立てた。しかし賈疋は群盗の討伐に失敗し、戦死。そこで同盟者のひとりである「麴允きくいん」が司馬鄴の補佐を継承し、懐帝かいてい殺害の報を受け、司馬鄴を皇帝に即位させた。


 石勒は「石虎せきこ」に鄴を攻めさせ、陥落させた。


 匈奴漢軍はしばしば長安を攻撃。しかし麴允・索綝の働きによって撃退をする。しかし兵力の差は覆しがたい。匈奴漢軍は周辺諸城を次々に落としてゆき、長安を丸裸とした上で再度包囲する。ついにその外城が破壊されたため、麴允と索綝は小城に立てこもった。外との連絡はまったく取れない状態であり、すぐに場内の者たちは飢えに苦しむようになった。

 こうして、ついに愍帝は城外に出、降伏を宣言した。


 長安攻めの主将であった劉曜は愍帝を平陽に連行。劉聡が群臣と宴を開くにあたり、愍帝に下働きを意味する青い衣を着させ、酒を酌させ、皿洗いもやらせた。また劉聡の傘を持たせるといった役回りもさせた上で、殺した。四年間の在位であった。


 西晋せいしん武帝ぶていの即位より愍帝の死亡に至るまで 52 年であった。

 建業けんぎょうにいた琅邪王ろうやおう司馬睿しばえい」が愍帝の死亡を受け即位、これが東晋とうしんの創始者たる元帝げんていである。

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