04-06-07 宋六 孝武廃明廃順帝

 孝武帝こうぶてい劉駿りゅうしゅんは即位十二年にして死亡した。太子の劉子業りゅうしぎょうが立った。前廃帝ぜんぱいていである。

 前廃帝は即位しても喪のさなかにあるはずが、傲慢さをむき出しとし、欠片ほどの哀れみの情も見せなかった。


 孝武帝は親類を忌避し疑い、多くを誅殺したが、前廃帝の所業はさらにそれを上回った。その猜疑心は自身の叔父たちにもおよんだ。湘東王しょうとうおう劉彧りゅういくらもまた宮殿内に幽閉され、杖で叩かれるなど人道に悖る扱いを受け続けた。こうした不道の行いがあまりに多かったため宮殿内外の統治が乱れ始め、ついには近侍による弑逆がなされた。在位は二年であった。劉彧が即位した。明帝めいていである。


 明帝は在位八年で死んだ。明帝死後、太子の劉昱りゅういくが立った。後廃帝こうはいていである。明帝には子がなかったため、実のところ明帝の近習のひとり、李道児りどうじの子であったという。明帝は劉昱を子として迎えると、諸王十五、六人を殺害。劉昱の即位の支援とした。

 劉昱が十歳で即位すると桂陽王けいようおう劉休範りゅうきゅうはんが挙兵し建康けんこうを攻めたが、右衛将軍うえいしょうぐん蕭道成しょうどうせいが迎え撃ち、斬った。このため蕭道成は中領軍ちゅうりょうぐんとなった。


 後廃帝もまた無道で殺人を趣味とし、宮廷の内外は恐れ、憂慮した。このため蕭道成に弑逆された。在位六年であった。安成王あんせいおう劉準りゅうじゅんが立った。順帝じゅんていである。


 順帝は後廃帝に対し決起し敗死した劉休範りゅうきゅうはんの子であったが、明帝が養子に迎えていた。順帝は即位後三年にして蕭道成に帝位を譲った。泣きながら指を弾き、語ったという。


「願わくば、生まれ変わるときには二度と天王の家になど生まれ落ちぬことを」


 順帝およびその一族は、禅譲後皆殺しとなった。武帝ぶていの即位より八代、五九年の治世であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る