02-07-07 漢六 平帝・孺子嬰

平帝へいてい」、名は劉衎りゅうかん中山ちゅうざん王「劉興りゅうこう」の子、元帝げんていの孫だ。哀帝あいていが死ぬと後継者とされたが、おう皇太后と王莽おうもうに実権は握られ、百官はみな王皇太后らのほうを向いていた。西暦 1 年に王莽を安漢あんかん公とした。


 4 年、王莽の娘を皇后に迎えた。王莽の官位があらゆる侯王より上となった。


 5 年、「孔光こうこう」が死亡した。三公でありながら王莽にこびへつらい、漢の災いを拡大した。王莽を讃える上書が四十八万人ぶんにものぼった。王莽に九錫きゅうしゃくが加えられた。

 同年末の祭において、王莽は平帝の飲む酒に毒を入れ、殺した。在位は六年。


 王皇太后は宣帝せんていの玄孫である「劉嬰りゅうえい」を皇太子とした。王莽は宰相の地位であるまま玉座につき、仮皇帝と自称した。民や臣下は宰相皇帝と呼んだ。「劉崇りゅうすう」が決起したが、敗死した。6 年に翟方進てきほうしんの息子「翟義てきぎ」も決起したが、やはり敗死した。


 8 年、ついに王莽は簒奪をなし、国号をしんとした。漢の太皇太后を新室文母太皇太后と改めた。



蒙求もうぎゅう

石慶数馬せきけいすうば 孔光温樹こうこうおんじゅ

 前漢ぜんかん武帝に仕えた石慶せきけいは父や兄たちとともに歴代皇帝よりの覚えめでたく、みな高官につけられていた。武帝ぶていの乗る六頭引きの馬車の御者をしているとき、武帝から「何頭の馬が引いているのだ?」と聞かれ、きっちり一頭一頭を数えた上で報告。一門の中でもっとも大雑把と言われていた石慶ですらこれだけ恭しく皇帝に仕えていたという。

 前漢末に宰相となった孔光は非常に口の硬い人だった。家族にすらまともに仕事についての話もせず、宮殿の一つ温室殿にどんな木が生えているのかを聞かれても答えずに他の話でごまかすほどだったという。

 皇帝に対して恭しさを貫き通した人たち。

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