04-04-05 晋四 謝安・謝玄 上

 桓温かんおんは「謝安しゃあん」を副官として登用した。

 謝安は幼いころよりその存在が重んじられていた。しかし幾度かに渡る招聘はいずれも辞退。士大夫たちは語り合っている。

「謝安がこのまま出仕しなければ、民はどうなってしまうのだ」

 はじめて出仕したとき、謝安は 40 歳であった。


 穆帝ぼくていが死亡、哀帝あいていを経て司馬奕しばえきが皇帝に立てられた。その後桓温が司馬奕を廃し、簡文帝かんぶんていを立て、簒奪を狙うも謝安によって防がれたのは、既に書いた通りだ。

 簡文帝が死亡、孝武帝こうぶていが立つ頃ともなると、前秦の脅威が極大にまで高まっていた。そこで孝武帝は詔勅を下し、前秦の南侵を食い止められる良将を求めた。その求めに応じたのが「謝玄しゃげん」、謝安の甥である。


 この話を聞き、郗超ちちょうが嘆じながら言う。

「謝安の鑑識眼の明察ときたらどうだ。世論がどう反対しようが、近親であっても推挙に迷わぬ。加えて謝玄の才ならば、その推挙に応えられぬことなぞない。おれはかつてやつの人員運用の才能を見たことがある。やつの手にかかれば、草履持ちですらその才に即した役目を負っているのだ。その運用を外したことなぞ、一度たりとて見たことがない」


 謝玄は広陵こうりょうに駐屯すると、その地で劉牢之りゅうろうしらを幹部として獲得した。全戦全勝、北府兵ほくふへいと呼ばれ、敵対する者たちから恐れ憚られた。


 前秦は兵を分け、各地から東晋とうしんの攻撃にかかり、諸郡を陥落させた。中でも襄陽じょうようでは守将の「朱序しゅじょ」を捕らえた。こうした戦績を背景に、歩兵工兵六十万あまり、騎兵二十七万を率い、南下を開始する。

 対する東晋軍は謝安の弟である「謝石しゃせき」を総大将とし、謝玄にはその前鋒軍を率いさせた。率いる兵力は八万ほどである。



蒙求もうぎゅう

謝安高潔しゃあんこうけつ 王導公忠おうどうこうちゅう

 東晋後期の大宰相謝安は 40 歳になるまで仕官せず、東方で清高潔癖な暮らしを貫いた。

 東晋を打ち立てた大宰相王導は、多大な功績こそ挙げたものの常に皇帝を最優先とする姿勢を貫いた。

 東晋のふたりの大宰相、その性質は結構反対。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る