04-09-02 周九 北斉北周滅亡

 北周ほくしゅう宇文毓うぶんいくが帝を自称した。明帝めいていである。


 北斉ほくせい高洋こうよう元氏げんしの一族を皆殺しとした上で死んだ。子の高殷こういんが即位した。


 宇文護うぶんごは明帝が聡明であることを憚り毒殺、明帝の弟の宇文邕うぶんようを立てた。武帝ぶていである。


 高洋の同母弟である常山王じょうざんおう高演こうえんが高殷を殺害の上即位し、在位一年で死亡した。子の高百年こうひゃくねんがあとを継いだが、高演の弟である長広王ちょうこうおう高湛こうたんが簒奪し、高百年を殺した。

 高湛は太子の高緯こういに帝位を譲り、太上皇帝たいじょうこうていを自称、そして死亡した。


 後梁の蕭詧しょうさつが死亡し、太子の蕭巋しょうきが立った。


 北周武帝が宇文護を誅殺、親政を始めた。


 高緯は多くの奸臣や遊女らを抱え込み、政を乱した。そのため北周は北斉を討ちぎょう入りし、高緯を捕らえ長安ちょうあんにて一族もろとも殺した。北斉は国が立ってより五世、三十年で滅んだ。


 武帝は冷静沈着で思慮深く、厳明なる政をなした賢主であったが、北斉を滅ぼして一年で死亡した。三十六歳であった。太子の宇文贇うぶんいんが立ち、楊氏ようしを皇后に迎えた。楊氏の父がのちの隋文帝ずいぶんてい楊堅ようけんである。楊堅は上柱国大司馬じょうちゅうこくだいしばとして国事を取り仕切った。


 宇文贇は太子の頃から小人と戯れることを好み、即位後一年と経たずして子の宇文闡うぶんせんに譲位し、自らは天元皇帝てんげんこうていと名乗り、その遊興ぶりをさらに激しくしたが、そこから一年と経たないうちに死亡した。


 楊堅は自らを大丞相だいじょうしょうとし、相国しょうこく隋王ずいおうに進み、九錫きゅうしゃくを加え、間もなくして宇文闡より簒奪、そして一族もろとも殺した。北周は西魏せいぎより簒奪してから五代、二十五年で滅んだ。

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