04-09-03 陳九 後主陳叔宝 上

 ちん後主こうしゅ陳叔宝ちんしゅくほうは太子の頃より太子詹事たいしせんじ江総こうそうと夜っぴいての飲み会を開催していた。


 即位して間もなくすると臨春閣りんしゅんかく結綺閣けっきかく望仙閣ぼうせんかくを建造した。それぞれ高さは数十丈に及び、数十もの間が連なり、沈檀しんだんといった高価な木材を用い、金玉珠翠にて大いに飾り立て、宝玉のすだれを垂らし、衣服や調度も過去に類を見ない豪勢さであった。建物の下には石を転がし人工の池を掘り、草木や花を植えた。後主は臨春閣に住み、貴妃の張麗華ちょうれいかは結綺閣に、龔氏きょうし孔氏こうしの二貴嬪きひん は望仙閣に住んだ。それぞれは往路用復路用の道が設けられた。


 江総が宰相さいしょう扱いとなっていたが、江総自らが政治に関わることはなかった。日々孔範こうはんらの文士と交わり、後庭にて宴を開いた。ここにやってくる客人は狎客おうきゃく、馴れ馴れしい連中と呼ばれており、貴嬪たちと客とで合唱をした。『玉樹後庭花こうじゅこうていか』といった曲を奏でては君臣交えて酔いながら歌を歌うこと、夕暮れ時から明け方にまで及んだ。


 宦官や近習、宗族や外戚らは皆で結託し、公然と賄賂が飛び交った。孔範は孔貴嬪と同姓であったことから兄妹の契りをなした。孔範は自身に朝廷一の文武の才能があると思いこんでおり、将帥らに些細な過失があればすぐさまその兵権を剥奪した。こうして陳の統治機構が崩壊し、ついには破滅するに至るのである。



 後梁こうりょう蕭巋しょうきが死亡し、太子の蕭琮しょうそうが立ったが、楊堅ようけんはついに蕭琮を廃した。蕭詧が江陵こうりょうにて梁を継承したと自称して以来三十三年間、西魏せいぎ北周ほくしゅうずいに仕えてきたが、その統治範囲は数郡に過ぎなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る