02-06-10 漢四 宣帝劉詢 7

 前 54 年、太司農の「耿寿昌こうじゅしょう」が宣帝せんていに上奏。辺境の地域に倉庫を設け、穀物の相場が下がったら倉庫に穀物を買い入れて蓄えることで相場を上げ手農民の生活を支援し、相場が不必要に高くなったら安値で売り出すことで買い付ける民の生活を支援させるようにした。これを常平倉じょうへいそうと呼んだ。



 前の光祿勳であった「楊惲よううん」が処刑された。楊惲は廉潔無私のひとであったが、妖悪の言ありと讒言があり免職され、庶人に落とされた。楊惲は自宅にて悠々自適の暮らしを送る。友の「孫会宗」がその危うい振る舞いを諫めると、楊惲は答える。

「我が振る舞いに過ち多く、このような事態に陥った。だので農夫として死にゆくのみよ。農夫は田畑作りに骨折り、そして年に二度ほどの休みの時に羊を食ったり、酒をかっくらって楽しむのだ。やがて酒が腹の中に回ってくれば、天を仰いでああ、と言い、そして詩をものするのだ。


 田彼南山 蕪穢不治

 種一頃豆 落而為萁

  かの南山を耕した折、

  わしは悪草の駆除に努めるも、

  一向に悪草は減らぬ。

  なんとか豆畑を設けてみても、

  こぼれ落ち、豆ガラが残るのみ。


 人生行楽耳 須富貴何時

 淫荒無度 不知其不可也

  人生なぞ、楽しんだものが勝ち。

  富貴を求めて何になる。

  どこまでも荒れ果てたこの世で、

  なんぞ悪かろうことがあるものか。

  

 この手紙は間もなく宣帝のもとに報告され、楊惲は驕り高ぶり、反省の気配がない、と言うことで収監大逆無道の罪として腰斬に処せられた。



 前 53 年、京兆けいちょう尹の「張敞ちょうしょう」が楊惲の郎党であるから、その地位には相応しくない、と言う上奏があった。とは言え能吏であったので、宣帝はその上奏を握りつぶす。

 そのころ張敞は部下の「絮舜じょしゅん」にとある事件の調査を命じていた。しかし絮舜の耳には張敞に関する上奏のことが伝わっていたため、「あと五日もせず罷免される長官殿の命など聞いていられるか」と語っていた。張敞はそれを知り、絮舜を投獄、処刑した。これに怒った絮舜の家族は、宣帝にこのいきさつを上奏。張敞は上書にて京兆尹を辞任の上一年ばかり亡命します、と伝え、身を隠した。

 以降長安では治安が乱れ、強盗の出現を示す警戒の太鼓が頻繁に叩かれるようになった。宣帝は張敞の才を惜しみ、最終的には復職させた。



蒙求もうぎゅう

張敞畫眉ちょうしょうかくび 謝鯤折齒しゃこんせつし

 前漢宣帝の時代、長安ちょうあんの治安を厳正に守った張敞は当然敵も多く、その短所を誣告するものもいた。そのひとつがかれが妻の眉を手ずから描いている、というものである。これが宣帝の耳にも届いたため召喚を受け、問われる。すると「妻の眉を描くことの何が悪いのですか?」と張敞が返答したため、もっともだ、と宣帝も笑った。

 東晋の名士、陳郡謝氏の始祖的位置にいる謝鯤。彼の特技は歌である。そんな彼が隣家の高氏の娘に迫ったところ下駄をぶつけられ、前歯を二本失った。周囲のものはそれを物笑いの種としたが、謝鯤は「けれども私の歌は健在だよ」と平然としていたという。

 うーん、これは現代的観点から言うと男尊女卑の匂いがきついですねー。女にかしずいてなお平然といられるふたり、的ニュアンスですものね。

 

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