02-06-09 漢四 宣帝劉詢 6

 前 57 年、馮翊ひょうよくを統べていた「韓延寿かんえんじゅ」を処刑した。

 かつて官吏であったときにはぎょうしゅんの教えに基づいて人々を導き、そのため潁川えいせん太守に任じられ、そして馮翊を任されるに至った。

 郡民に兄弟で争い合う者がいた。それを聞いて韓延寿は我が不徳のためであると自宅に閉じこもった。兄弟は自らの至らなさに気づき反省したという。以降郡民らは互いに励まし合いつつ日々の仕事に携わった。もめ事もなくなり、誰もが韓延寿を頼った。そのような中で、別の事件に連座しての処刑である。郡民はみな涙した。


 前 56 年、丙吉へいきつが死亡した。「黄霸こうは」が後任の丞相となった。

 かつて潁川太守であったとき、官吏も郡民も、誰もが黄霸を欺くことができなかった。とは言え統治は教化を第一、処罰を第二とした。

 例えば、副官の「許丞きょじょう」が老いと病から耳が聞こえなくなったとき、罷免をすべきではないかという周囲からの声に、こう答えている。


「許丞は清廉潔白なる官吏である。老いたりといえどよく命令に従い、行動する。確かに何度もこちらの言葉を聞き返してこそくるものの、さして業務の障りになるわけでもない。だいいち副官をそうころころ変えたならば出迎え見送りの費用もバカになるまい。しかも交代期間は管理も甘くなり、悪巧みをするものが帳簿を焼き捨てたり横領を企んだりと言ったことも起こる。それでいて交代した副官が能吏であるという保証がどこにある? これで劣っている者であれば、治下の乱れが増すだけだ。政道とは大きく道を外れる者を排除さえすれば、それでよいのだ」


 黄霸は寛大にして内情をつぶさに観察し、よく官吏民衆の心を得ていた。その統治が天下一であったため丙吉のかわりとなったのだが、ただその才能はあくまで民を治める地方官としてのものであり、宰相となってからはその辣腕を振るいきれなかった。



蒙求もうぎゅう

黃霸政殊おうはせいしゅ 梁習治最りょうしゅうじさい

 前漢宣帝せんてい時代の名地方官、黄覇。彼は地方統治では抜群の手腕を見せた。その腕を買われてついには宰相にまで上りつめた。もっとも宰相としての統治は地方長官時代の時ほどの冴えを見せなかったそうだが。

 後漢末期、地方の動乱を見事に収めきった梁習。曹操そうそうがその手腕を評価して地方長官に抜擢。すると当時で最も優れた統治者である、とまで讃えられるに至った。

 名地方長官ふたり。

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