02-06-11 漢四 宣帝劉詢 8

 黄霸こうはが死ぬと、于定国うていこくが丞相となった。

 于定国の父は「于公うこう」といい、東海とうかい郡の獄吏であった。

 東海で、ひとりの孝婦が夫を喪うも、その後もなお姑と共に暮らしていた。姑は自らの存在が彼女の再度の嫁入りを妨げているのだと苦に思い、自殺。すると姑の娘が孝婦を訴える。彼女が母を殺したのだ、と。孝婦は無罪を主張することもできず、誣告を受け入れてしまった。于公は彼女の救済のために動いたが叶わず、結局処刑された。この後三年間,東海郡ではひでり続きになった。のちに新たな太守が赴任したとき、于公がそのことを訴え出た。そこで太守は孝婦の墓を祀った。するとついに雨が降り出したという。

 于公の獄卒としての仕事は人知れず人々に慕われる、と言った類のものだった。かつて村の門を大きくし、四頭立ての馬車でも通れるようにしたことがあった。「わしの子孫で四頭立ての馬車、つまり宰相クラスの馬車に乗る者が出るだろうから」とのことである。そして実際に子の于定国は廷尉としての才覚を示し、朝廷よりは「かつて張釈之ちょうしゃくしが廷尉であったとき、民に冤罪はなかった。いままた于定国が廷尉であれば、はやり冤罪は起こるまい」と讃えられ、ついには御史大夫を経て、黄霸の後任に任じられたのである。




蒙求もうぎゅう

于公高門うこうこうもん 曹參趣裝そうさんしゅそう

于定国(前漢)&曹參(前漢)

 前漢に仕えた于公うこうが能吏であったため、その治績を讃える祠が建てられる。が、間もなく祠の門が崩れてしまった。それを知った于公は門を高大に作り替えるように指示した。子孫に宰相クラスのものが出るだろうから、と言うのだ。実際に息子の于定国うていこくは、宣帝せんていの時代に宰相に至った。

 曹参そうしん劉邦りゅうほうの決起以来の腹心。蕭何しょうかとはいいコンビであった。項羽こうう討伐以後、せいの宰相としての辣腕を振るっていたが、ある日蕭何死亡の報が飛び込んでくる。それを聞いた曹参は礼服に着替え、長安に出る準備を整えさせた。漢の宰相としての招聘があるから、と言うのである。果たして曹参は蕭何の後継として招集を受け、蕭何亡きあとの漢を支えた。

 大官としての寵遇を予期した二人。

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