03-03-10 漢八 左雄

 尚書令の「左雄さゆう」は、郡国から孝廉を推挙させるよう願い出た。ただし四十才以上で、経典の言葉を暗誦でき、その章句から上奏文を著述することができる能力を持つもののみがこの選抜に挑戦する資格を得た。


 またこの試験とは別に、特別な才覚が認められたものにして、いにしえの偉人、顔回がんかいや「子奇しき」のような際立った人物であれば、年齢を問わず採用すべき、とした。


 左雄は公平・率直・精勤・明察の人であった。ひとの真偽をよく見抜き、一度決断したことは必ず為し遂げた。あるとき孝廉に少年を挙げてきた郡があった。左雄は少年に詰め寄って、言う。

「顔回は一を聞いて十を知ったと言われる。孝廉殿よ、そなたは一を聞いていくつを知ることが叶うのか?」


 茂才推挙はよほど微妙だったようで、孝廉としてこうした不適格の若者が送り込まれたことを理由に十名以上の推挙官が罷免された。一方で、このシステムによって採用されたものもあった。汝南じょなんの「陳蕃ちんばん」、潁川えいせんの「李膺りよう」、下邳かひの「陳球ちんきゅう」など三十名余りが、郞中として登用されたのである。



蒙求もうぎゅう

元禮模楷げんれいぼかい 季彥領袖きげんりょうしゅう

 後漢後期、党錮とうこの禁によって犠牲になった士人の筆頭格、李膺。あざなが元礼。彼は茂才として中央に推挙されると、周辺の人間から「彼こそが我々の模楷、すなわち手本となるひとだ」と評されていた。

 世説新語せせつしんごでは何故かこの言葉のみで登場するという微妙な扱いを受けている裴秀はいしゅう、あざな季彦きげんしん曹魏そうぎに成り代わらんかといったタイミングにあり、裴秀は後進のトップランナーたるに相応しい、と評価されていた。

 次代の牽引者と目された二人。

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