04-05-03 魏五 拓跋珪

 代王だいおう拓跋什翼犍たくばつじゅうよくけんの嫡子であった拓跋寔たくばつしょくは早くに死亡し、後継者が未だに決まらずにいた。そこに長庶子ちょうしょしが、拓跋什翼犍及び息子たちを殺害するという事件が発生。この事態を受け苻堅ふけんは代に兵を向かわせた。国の主だった者たちは逃散し、国内は大混乱に陥る。

 苻堅はそんな代を二部に分け、黄河こうがの東を南部大人なんぶたいじんの「劉庫仁りゅうこじん」に、西を匈奴きょうどの「劉衛辰りゅうえいしん」に任せ、統治させた。

 拓跋寔の子である「拓跋珪たくばつけい」はいまだ幼く、母の「賀氏がし」は拓跋珪を抱え弟である「賀訥がとつ」を頼り、次いで劉庫仁のもとに逃げ込んだ。劉庫仁は拓跋珪を代の正統として奉じて仕え、自らが成り代わろうという意志を示すことはなかった。


 やがて淝水ひすいの戦いが勃発。前秦ぜんしんが崩壊した。

 拓跋珪を匿っていた劉庫仁は配下に殺され、弟の「劉頭眷りゅうとうけん」が部民継承するも、劉庫仁の子である「劉顕りゅうけん」に殺され、部民を奪われた。その劉顕が拓跋珪を殺害せんと目論んだため、拓跋珪は再び賀蘭部がらんぶに逃げ延びた。


 ここでもと代国に仕えていた諸部しょぶ大人たいじんたちが拓跋珪を主として推戴。拓跋珪は代王を名乗り、代復活を果たす。やがて盛楽せいらくに腰を落ち着けると、そこで国号をに改めた。いわゆる北魏ほくぎの建立である。


 慕容垂ぼようすい中山ちゅうざんにて皇帝を自称した。

 慕容垂ぼようすいが死に、子の「慕容宝ぼようほう」が立った。


 東晋とうしん安帝あんていが立った。


 拓跋珪は連年後燕こうえんを攻撃、中山ちゅうざんを包囲した。慕容宝は出奔し、のちに配下によって殺された。

 拓跋珪は皇帝を自称、平城へいじょうを都とした。


 柔然じゅうぜん漠北ばくほくに起きた。高車こうしゃの土地を奪って居着き、周辺諸部を併呑した。戦士も馬も多くを抱え、北方の雄となった。その領域は西は焉耆えんき、東は朝鮮ちょうせんに接し、南は大漠たいばくを臨んだ。周辺の小国たちはいずれも従属の道を選び、こうして北魏ほくぎと対立するに至った。


 拓跋珪は他人の妻を奪うため、夫を殺した。そして「拓跋紹たくばつしょう」を産ませた。拓跋紹は凶暴この上なく、拓跋珪を殺害した。拓跋珪の嫡男「拓跋嗣たくばつし」が拓跋紹を殺し即位した。


 拓跋珪は烈祖れっそ道武帝どうぶていと諡された。

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