蒙求 下
虞卿(史記)&蘇章(前漢)
戦国
後漢
簦と笈は部首的にも、ともに竹によって作られた道具なのでしょうね。そういった道具に絡む知恵者ふたり、という感じだろう。
賈南風(晋)&紂王(書経)
南風は
無道の限りを尽くし、結果ともに亡国を招いた、と言うことでセットにされている。
薛広徳(前漢)&郅惲(後漢)
前漢
後漢の
皇帝相手にもしきたりを断固として守らせようとするふたり。
應奉(後漢)&
後漢で司隷校尉にまで至った応奉は博覧強記のひとであった。何か書物を読むときには五行同時に読み下し、しかもそれで遺漏がなかったという。
前漢の張安世もやはり博覧強記のひとであった。武帝の時代に、三箱分の書物が遺失する事件が発生。その内容を把握できている者などいないだろうと思っていたところ、何と張安世が三箱分の書物をすべて暗記していたため、再現が叶った、と言うのだ。
化け物じみた読み手二人。
司馬相如(前漢)&終軍(前漢)
前漢武帝に仕えた司馬相如は
同時代の、やはり文人である終軍は武帝より招集を受けて東方から函谷関入りするときに繻、すなわち割り符を渡された。返ってきた際にこれを見せろ、と言うのだ。すると終軍、「ふざけんな俺は立身するんじゃ、こんな割り符で照合される必要のない高官になってやるわい」と割り符を投げ捨ててしまったそーである。こ公共物破損ンー!!!
不退転の立身の志を背負った、同時代の二人。
孫晨(三輔決録)&原憲(荘子)
孫晨はムシロ編みで糊口を凌ぎながら学問に打ち込み、最終的には長安の役人として取り立てられたのだそうだ。
原憲は孔子の高弟のひとり。粗末なあばら屋に住み、入り口の戸は桑の葉っぱを垂らすことで代用していた。この様子を貨殖に長けた子貢が嘆いたところ「先生の清貧の教えも守れないお前が何言ってんだ」とへこませた。
貧乏暮らしを受け入れる賢人ふたり。
子貢(孔子家語)&鍾離意(後漢)
お金の清濁にこだわるふたりである。
季札(史記)&徐穉(後漢)
呉の公子季札は呉からの使者として、各地に出向くことになる。その途上にさしかかった「
徐穉は後漢の人。聡明ではあったが、隠遁指向。ただお世話になった人が亡くなったときには、名を明かすこともなく、大いに哀悼の意を示し、去ったという。
二人とも栄達を避けつつ、しかし死者に対する礼節を尽くした、という感じでペアにされているようだ。
っつーかこれ「徐」にも掛けてんだろwwwゲーコマですのう。
朱雲(前漢)&申屠剛(後漢)
前漢成帝に仕えた朱雲は成帝が佞臣にたぶらかされているのを命を賭し諫言。牢に連れ去られそうになったが、必死に欄檻に捕まり、欄檻が折れるまで訴え続け、ついにその誠意が認められた。ただし成帝は奸臣を退けなかった。
王莽の時代、王莽に申屠剛は直言の臣下を置くべきと唱えたため退けられた。やがて光武帝に仕えると、まだ天下も治まっていないのに光武帝が猟に出たいなどと言い出す。なので光武帝が使っていた車のタイヤの前に頭を差し込む形で止めさせた。いきたいなら俺の頭を車輪でかち割ってからにしろ、というわけだ。
皇帝のおいたを、身を張って止める忠臣ふたり。
衛玠(晋)&王恭(晋)
西晋から東晋に疎開した名士衛玠は非常に美しく、幼いころ羊の引く車に乗っていた姿を人々から「玉人」と称えられていた。ただし最後は心労で死亡。暗殺説も疑われている。
東晋末の名士、王恭。やはり彼も見目麗しく、鶴の羽で織った着物を羽織り町中を歩いていたところを「神仙かのようだ」と称えられている。しかし最後は政争に巻き込まれ死亡。
美人薄命。えっ違う?
管仲(韓非子)&曹沖(三國志)
斉の桓公が外国征伐に出たところ、帰り道に迷子になった。すると管仲が「老いた馬の知恵を頼るべきだ」と老馬を放った。そして老馬の後についていったところ、うまく帰り道にたどり着いた。
蒼舒は
動物にまつわるふたりの知者。ついでに言えば「この人がもっと長生きしていれば……」にもかかっていますわね。
丁蘭(孝子伝)&伯瑜(説苑)
丁蘭は孝行者だった。母が亡くなると木に母の姿を彫り、それ母のごとく扱い、孝行をなす。あるとき妻が間違えてその像を焼いてしまったところ、彼女の髪の毛がごっそり抜け落ちてしまったのだという。
伯瑜は悪いことをした。そして年老いた母に杖で打たれた。すると伯瑜は泣く。今までいくら杖で打たれても泣いたことがなかったというのに。母がその涙の理由を問う。するとこう答えた。「あなたにぶたれてもまるで痛くなかった。これまでは痛かったのに。ああ、お母様は老いてしまわれたのだ、と思った」。
母子の突き抜けた想い。なんだこの変態スメルは。
陳逵(世説)&田方(史記)
陳逵は
お前らの都合にこっちを巻き込むんじゃねえ、知ったことかよ、と突っぱねるふたり。いや陳逵さんはもうちょっと周りを構ってやってもいいんじゃないかな……?
黃向(後漢)&陳寔(後漢)
後漢人の黄向は道ばたで金の入った袋を拾ったが、ネコババせず持ち主に返したという。
後漢後期の名士、陳寔が統治した町は徳によって治まった。そんな陳寔の家に盗賊が押し入ってくるのだが、陳寔は「やむにやまれぬ事情があるのだろう」と盗賊を諭し、改心させてしまった。
盗みはイクナイ。
龐儉(風俗通)&陰識(後漢)
龐儉の父が消息不明になった! 住むところを追われた龐儉、母とともに田舎に引っ越すも、そこで井戸を掘ったら財宝にぶち当たり、大金持ちに。やがてひとりの老奴隷を買い入れたら、それは行方不明になっていたはずのおとんでした! ……えっ?
陰子方は管仲の子孫であったという。よくかまどの神を祀っていたところ、かまどの神がその厚い祭祀に感じ入り、彼を立身させた。やがて三代後の子孫が、光武帝の皇后となる隠麗華だ。
思いがけぬ行動が富貴に繋がる、という感じではあるけれど、龐儉のエピソードが理解不能すぎて……。
韓壽(世説)&王濛(世説)
西晋の名臣、
東晋中期のイケメン王濛は身なりをあまり気にかけないたちでこそあったのだが、破れた帽子をおっ被り町中をぶらつけば、王濛の外見に惚れ込んだお姉様がたが王濛に帽子をプレゼントしてくるのだった。
イケメンに女子夢中。
勾践(春秋)&陸抗(三國志)
勾践は人から旨い酒を貰ったとき、自分は飲まずに川に流して配下兵に飲ませた。旨い食い物を貰えばそれを兵らに分け与えた。入手した一人分の酒や食料を数千人に分け与えれば当然味もクソもないのだが、その意気に兵らは感動し、五人力、十人力の働きをしたという。
陸抗は
名将の、贈り物にまつわる度量であるとかを並べ讃えた感じですね。正直勾践の振る舞いどーなのよって思うけど。
孔愉(世説)&張顥(博物誌)
孔愉と言えば東晋時代の、やや隠者っぽい暮らしをしていたひとである。彼が道ばたで捕らわれていた亀を購入、沢に解放してやると、亀は三度左向きに公愉を振り返ってから消えたのだそうだ。その後孔愉が役人に叙任されるにあたり、印璽に示される亀がなぜか左に向いていたという。
梁で、雨のあとカササギのような鳥が飛んでいた。村人、石を投げて鳥を撃墜。すると落ちてきた鳥は何故か丸い石になった。このとき梁の長官であった張顥の元に石が持ち込まれると、張顥、ハンマーで石を割る。すると中から何故か金印が! なお張顥は後漢霊帝の時代に太尉にまで上りつめたという。
動物と、印璽。しかし片方は救われており、片方は打ち落とされて、割りさえされている。この扱いの差……。
田豫(三國志)&李恂(後漢)
三国魏に仕えた田豫は曹芳の時代に并州刺史となって胡族に対してにらみを利かせた。その統治は倹素そのものであり、家にはほとんど財産らしい財産もなかった。
後漢章帝の時代に兗州刺史となった、李恂。彼もやはり清楚倹約な暮らし向きを貫いた。自給自足を旨とし、政府高官よりの支援物資などについてもいっさい受け取らなかったという。
質素倹約を貫いた地方長官。
義縱(前漢)&周陽(前漢)
ともに前漢武帝に仕えた酷吏。義縱は群盗上がりの役人。その統治は苛烈の一言であり、ちょっと悪いことしたやつを見かければすぐ殺す、の勢いだった。偉い人でも構わず殺した。あまりにも行きすぎていたので武帝はどうにかして義縱を陥れようと企み、尻尾を掴んだ瞬間側処断した。
周陽由は自分の好みで救済処罰の基準を定め、およそ法律を守ろうとしなかった。郡の役人となれば太守から実権を奪うし、太守となれば配下をいいようにこき使う。太守として任地に出向けば地元の豪族を殺し尽くす。最終的には河東郡の役人として赴任したときに太守から実権を奪おうと争い合い、殺された。
酷吏恐い酷吏恐い。
張載(晋)&賈氏(左伝)
張載、あざなが孟陽。博識でおとなしいひとだが、ひどく醜かったそうだ。蜀に任官していた父の陣中見舞いにでたところ、蜀の子供らに石やら河原やらを投げつけられ、へこまされたそうである。ば、バーバリアン……。
賈と言う姓のひとはめっちゃ醜かったそうだが、その妻は美しかった。ただし夫に対して三年間、まともに会話しようとも笑顔を見せようともしなかった。やがて臯の地で狩りをした時、賈氏、羽ばたく雉を一発で射貫く。それを見て初めて夫人が笑う。その笑顔を見て「才能は磨いておくものだ、お陰でお前に笑ってもらえた」と語った。
不細工の悲哀、と言うか扱いひどすぎじゃないですかねぇ……?
顏回(論語)&張仲蔚(高士伝)
顔回は粗末な竹編みの弁当箱一つのみの食事でも生活を楽しんだという。
一方の
恬淡な生活を楽しむ聖人ふたりだ。
糜竺(捜神記)&桓景(続斉諧記)
麋竺は劉備の臣下のひとり。洛陽から家に帰るときにひとりの婦人が同道を求めたので車に乗せた。すると婦人は言う。「私これから天帝の命で麋竺ってひとの家焼かなあかんねん。あんさんわてに優しくしてくれたで内緒で教えたるわ」。びっくりした麋竺、慌てて家から家財道具を外に出したところ、本当に火事が起こったのだとか。
桓景は縮地の方術を操る費長房の弟子。あるとき費長房に「九月九日にお前んちでやべーことがあるんで、この日には高台に登って酒でも飲んでろ」と言われた。家族総出でその通りに行動し、下山すると、果たして家畜がみな死んでいたという。
災いの予見と、それを避けるべきという言葉に従い、助かった人たち。
雷煥(晋)&呂虔(三國志)
西晋の雷煥は土中より一対の伝説の神剣「干将・莫耶」を掘り当てた。一本は自らが持ったが、もう一本は張華に送った。やがてふたりは歴史の荒波に殺され、干将莫耶は何処ともなく消えていった。
魏に仕えた呂虔はやはり神剣を持っていた。これを鑑定したものが「凡人が提げてよいものではない、三公に上るようなお方が提げるべきものだ」と語る。そこで呂虔は名士として名高かった王祥に渡す。すると彼は三公に至った。王祥がその弟に剣を渡す。その弟の子孫こそが、かの王導である。
老萊子(高士伝)&黃香(後漢)
老萊子は隠者。七十才にもなって未だ両親が健在であり、両親の前では赤子のような声を上げたりもしたという。
黃香は母親を亡くして以降、父親にも更に献身的に尽くした。冬の寒い日には自らの身で布団を温めたし、夏の暑い日には枕元に立って一生懸命に枕を扇いだという。
親のために全力を尽くす孝子ふたり。
王祥(世説)&蔡順(後漢)
後漢末の名士、王祥。彼は継母よりいじめられていた。ある嵐の日、継母より
前漢末期に生きた蔡順は母思いであり、母親が死んだ非に見舞われた火事の中、それでも母の身を守ろうと棺に覆い被さり続けていた。
母のためになら身をもなげうつ二人。
劉安(前漢)&左思(後漢)
前漢の
西晋の代表的文人のひとり、
とことんまで文学を突き詰める鬼ふたり。
劉惔(世説)&王恭(世説)
東晋中期の名士、劉惔。彼は同僚の何充の穏やかな飲みっぷりを心地よく思ったため、彼のためにうちの酒蔵の酒をすべて開けてみたいのだ、と語った。
東晋末の名士王恭は名士のあり方について「奇才はいらん、酒を痛飲し、楚辞でも読んで暮らすのが良いのだ」と語った。
お酒は社交、お酒は生存。
女媧(史記)&長房(後漢)
女媧の治世、天地が荒れ狂った。それらを整えるために女媧は五色の石を練って天を補い、
天と地とでセットにされる霊異だが、スケールが違いすぎる。
崔琰(三國志)&韓安国(前漢)
三国魏、
前漢
大きな器を讃えられたふたり。
陸玩(晋)&賈詡(三國志)
東晋初期の宰相、陸玩。東晋を立ち上げた宰相たちが次々と死亡したため就任したのだが、「東晋に人がいなくなってしまったためわたしに役目が回ってきたのだ」と嘆息した。
官位にふさわしくないと言ったり、言われたり。
何晏(世説)&郭奕(晋)
漢末の大文人、何晏。彼は抜群の文才を示していたが、同じく凄まじい文才を示していた王弼に対し素直に感服した。
西晋の名士、郭奕。彼は名高かったがみだりにひとと交友を持とうとは思わなかった。しかしあるとき、竹林七賢の阮咸とあってたちまち感服、敬服した。
才は才に惚れる。
常林(三國志)&高鳳(後漢)
三国魏の人、常林。彼は学問をこよなく好んだ。一方で農務をも疎かにはせず、経典を抱えながら畑仕事に精を出したという。
後漢の人、高鳳。農家出身のひとではあったが、やはり学問をこよなく愛した。あるとき妻が麦を天日干しにし、高鳳には鶏が逃げ出さないように見張るよう命じた。高鳳は鶏を見ながら書を読む。折しも大雨が降り出すも、高鳳は止まらない。ついには畑の麦が流されたことにすら気付かないほどだったという。
農務をしながらも学問を修めた二人。
孟嘉(晋)&庾凱(世説)
東晋後期の名士孟嘉は酒に酔い、被っていた帽子を落としたことに気付かなかった。そのことを周囲にからかわれたのだが、それに対する返答がみごとなものであったため、まわりのものはむしろ感心してしまった。
西晋末期の名士、庾凱。彼は同僚に睨まれており、あるときしたたかに酔わされ、そのために帽子を取り落してしまった。失言を引き出そうとするっ同僚だったが、庾凱はむしろ通常時以上の冴えを見せた切り返しをした上で、帽子を手で拾わず、頭を直接差し出して拾った。
酔って帽子を落とすも、やはり智者はしゅごい。なお「帽子を落とす」は、現代の感覚では下着丸出しになっているのに近い。
龍逢(論語)&張華(晋)
一方の張華は
国亡に絡む、二人の忠臣の死にまつわる予言がセットになっているわけだ。
董奉(神仙伝)&扁鵲(史記)
董奉は神医。後漢末に交州刺史であった杜燮が任地で人事不省に陥り、そのまま死亡したのだが、董奉が謎の丸薬を飲ませると復活したのだそうである。
扁鵲もやはり神医。虢と言う地にさしかかったとき、その国の皇太子が死んだ。しかし扁鵲が駆けつけ、弟子とともに処置を行うと、見事に復活させ、二十日ほどのちには元気になったのだという。
死をも超越する名医ふたり。
寇恂(後漢)&何武(前漢)
光武帝が誇る雲台二十八将のひとり、寇恂。彼は地方鎮撫に優れた手腕を誇った。ある地方の乱を光武帝が寇恂とともに平定、帰還しようとしたとき、民らは「寇恂様を一年、この地方の長官としてお留めください」と嘆願したという。
前漢成帝の時代、蜀で公平な人物の推挙をなした何武は、沛郡でも、中央でもはやり公平な推挙をなした。中央では儒者と官吏との間を取り持ったりもしたが、最終的には王莽に忌まれ、自殺に追い込まれている。
その公平さを慕われたふたり。
韓非子(史記)&梁鴻(後漢)
韓非子は「孤憤」編にて法家のやっていることは正しいが厳しく、故に徒党を組む者たちの批判にさらされるであろう、と説いた。
後漢の人梁鴻は才人だったが、漢帝に仕えるのをよしとせず各地を放浪。洛陽近くに至ったとき「五噫の歌」をものし、現世の批判をした。
己の正しさのために、激烈な言葉で正しからざる者を糾弾することも辞さないふたり。
蔡琰(後漢)&王粲(三國志)
後漢末の大文人である
三国魏の大文人、王粲。凄まじい記憶力を誇り、あるときみんなで囲碁の対戦を鑑賞していたとき、その石がばらけてしまった。すると王粲が事もなげに局面を再現してしまい、再開が叶ったという。
とんでもない耳や記憶力を持った二人。
西門豹(史記)&何謙(晋)
戦国魏、文侯の時代。鄴に西門豹が就任した。この頃鄴では川にいけにえを捧げる儀式が無駄に豪勢になっており、それで費用がかさんで人々が苦しんでいた。なので西門豹、ひとまず祭祀の開催を待ち、「やっぱり神に捧げるのは位の高い者じゃないとね!」と、いけにえでなく、祭祀を執り行う巫女やら神官やらを手当たり次第川に投げ込んだ。その後周辺の水利を整えたという。
何謙は淝水の戦いで苻堅を破った名将、謝玄の配下。遠征先で社があったりして、兵士らがたたりを恐れるのを見るたびに、その社を焼き払ってしまったという。
迷信をものともしない名行政官と名将。
孟嘗(後漢)&劉昆(後漢)
後漢の役人、孟嘗は南方の町、
同じく後漢の劉昆は有徳の人であった。あるとき火事があったのでそちらに向けて叩頭すれば火事がやむし、別のところで虎の害が激しかったのにかれが赴任すると虎は逃げ去った。「どうすればそんな真似ができるのだ」と
際立った治績をおさめながらも、どこまでも謙虚であった二人。
姜肱(後漢)&孔融(三國志)
後漢桓帝時代の隠者、姜肱。彼は兄弟たちと仲が良く、その布団すらともに共有するような間柄であった。
後漢末期の名士、
兄弟想いがぶち抜けたふたり。
韋端・韋康(三國志)&紀亮・紀陟(三國志)
後漢末、涼州刺史であった韋端は中央に高官として召喚されると、息子の韋康がその後釜として涼州刺史となった。
呉の孫休の時代、中書令として働いていた紀陟の父、紀亮がやはり中央に尚書として召し出された。親子が側にいるのもあれだろうと言うことで、朝廷における席次を敢えて離された。
親子がともにめっちゃ高官についた。
司馬倫(晋)&梁孝王(前漢)
西晋は
前漢は
破滅した王のもとにもたらされた動物の凶兆。
桓典(後漢)&王尊(前漢)
後漢末の宦官たちが幅を利かせる宮廷にあり、桓典は真っ向から宦官に逆らった。そのため七年ほど要職から干されていたという。だので人々は極力桓典の乗る馬を避けようとした。
前漢の王尊は
自らの使命のためには危険をも厭わぬふたり。
鼂錯(前漢)&趙禹(前漢)
漢の
趙禹は漢の
人当たりのヤバい二人の明暗。
諸葛亮(三國志)&劉備(三國志)
三国蜀が魏の支配する
挑発する英雄、応じる英雄。
張翰(晋)&陶潛(晋)
西晋の長官は八王のひとりである司馬冏に幹部として召し出されたが、間もなくしてふるさとが恋しいので、と故郷に帰還してしまった。それから間もなくして司馬冏は敗亡した。
かえりなんいざ、である。詩人陶淵明は東晋末期に宮仕えをしていたが、宮仕えが性に合わないから、と職を辞し、故郷に引っ込んだ。
隠棲後間もなくして、主が滅んだ……でいいのかしら?
魏の初代皇帝曹丕は南館にて文学の士と交流した。漢の武帝に仕えた公孫弘は東閣にて国を支えるべき人士らと交流を深めた。
人材を集め、育てることを象徴する、二つの時代の二つの館。
劉交(前漢)&陳蕃(後漢)
後漢末、
名声ではなく、尊敬するものに対しての敬意を示すふたり。
李廣利(前漢)&王霸(後漢)
前漢
ふたりの将軍が起こした、水に関わる奇跡。
孔融(後漢)&鄭崇(前漢)
後漢末の名士孔融は多くの人士を愛した。閑職に追いやられていても、彼の開催する宴には多くの才覚あふれる若者たちが集っていたという。しかし面と向かっては短所を、当人のいないところでは長所を言うようなスタンスであったため、ついには曹操に嫌われ、殺された。
前漢
諫言をなした賢臣の哀れな末期。
張堪(後漢)&周鎮(世説)
後漢の時代に
清貧を貫き、志を全うした二人。
郭伋(後漢)&劉寬(後漢)
後漢
寛大な恩徳を示した名地方官たち。
許氏史氏&韋氏平氏(前漢)
同じく前漢では
家族揃って栄達した人たち。
雍伯(捜神記)&黃尋(幽冥録)
雍伯は父母を無終山に葬ると、そのままその地に住んだ。その地は慢性的な水不足に悩まされており、雍伯は彼らのために無料の水を確保してやった。するとそこにひとりの男がやって来、石でできた種を示す。「これを植えれば財宝がなる。きっと妻にも恵まれる」。本当に財宝がなった。またその財宝を近所の富豪にみせたところ、娘をもらった。
黃尋は貧乏人だった。あるとき大風が起きて、銭がわさわさと飛んできた。こうして銭を獲得した黃尋は大金持ちになった。
謎の霊異により金持ちになったふたり。
王允(後漢)&黃憲(後漢)
王允は後漢末、朝廷を席巻した
後漢
巨大な数字に絡んだ、名士の評価。
虞斐(晋)&戴淵(世説)
東晋の宰相王導は虞斐こそが次の宰相たるべき才覚人望を兼ね備えていると目していたが、結局その見立ては叶わなかった。なお虞斐は本来虞「馬斐」です。機種依存文字になるため便宜的に「斐」にしてます。
西晋末、陸機が戴淵による強盗働きに遭遇。その指揮があまりに優れたものであったため、思わず陸機は「何故あなたほどの才持てる者が強盗になど身を落としているのだ」と呼びかけ、友としての交わりを結んだ。
才あるからと栄達できるわけでもなく。
史魚(孔子家語)&子囊(左伝)
史魚は衛の霊公の時代の人、つまり孔子の同時代人。霊公が佞臣を重んじ賢臣を遠ざけていたのをしばしば諫めたが聞き入れてもらえず、その死に際して「私は君主を正すことができなかった、ならば葬礼を受けるには値しない」と薄葬を命じた。それを見た霊公が己の過ちを悟り、ついに佞臣を遠ざけたという。
子囊は楚の士大夫。死の床にあり、遺言は「都、郢の防備をしっかりと固めるように」であった。
死の床にあっても国の繁栄を願い続けた忠臣ふたり。
戴封(後漢)&耿恭(後漢)
後漢の役人、戴封の任地が日照りに襲われた。戴封がいくら雨乞いの祈祷をしても、なかなか雨が降ろうとしない。そこでついに戴封、自らを生贄として薪の上に自らの身を置いた。するとついに雨が降り出したという。
後漢の将軍、耿恭。西方の将として赴任したところ、匈奴にしばしば襲われた。撃退の上攻め立てたはいいが追撃先で水を使い切り、渇きに苦しむ。井戸を掘っても水が出ない。そこで耿恭、井戸に向けて祈りを捧げた。すると、なんと水が湧き出したという。
ふたりの祈りは、天に通じたのだ。
汲黯(前漢)&馮驩(後漢)
前漢武帝に仕えた直言の士、汲黯。かれは河内で火事が起こったときに武帝より視察を命じられたが、その地に貧民がたくさんいるのを知り、火事のことはシカトして、河内の倉庫を開放、貧民たちに施させた。それでそれを堂々と武帝に報告してのけた。だいたいがこんな感じで、武帝も存在をはばかりこそしたが、忠義の士であることは疑いようもなかったため処罰することはなかった。
戦国時代の斉のひと、馮驩。孟嘗君に仕えたが、その振る舞いはまるでヒモのよう。孟嘗君はあきれていたが、しかしその弁才は確かだったので養い続けた。あるとき馮驩に薛せつの民の借金を返済させる役目を任じた。馮驩が薛に赴くと、みなひもじい暮らしで身動きもまともに取れない状態だった。なので馮驩、民たちの前で証文を焼いてしまう。孟嘗君は激怒したが、結局はこのために薛公として受け入れられ、身を全うした。
君命よりも貧民。主人もぐぬぬと認めざるを得ないふたり。
齊景公(論語)&何曾(晋)
斉の景公は、
対する何曾は
贅沢者繋がり、こうして並べられると「将来の国運衰亡にも繋がったのだ」まで言いたくなっていそうではある。
顧榮(晋)&田文(史記)
斉出身の戦国四君、
卑しい身分の人たちとも、食のレベルでは対等であり続けたふたりの名士のお話。
孔稚珪(南史)&周顒(南史)
南斉の時代を生きた孔稚珪は政務に関わるのを良しとせず、自宅の庭に雑草を生い茂らせて蛙を呼び寄せ、その鳴き声を聞くのを酒の肴としていた。
周顒はそんな孔稚珪と同じく隠者暮らしをはじめしていたが、のちに宮中入りし、立身。「おまえのふるさとにいる鶴は恨みの鳴き声を上げるだろう、もはやおまえに返る先はないぞ」と詩に仮託して言いつけた。
隠者に取り、士官は裏切り。
廉頗(史記)&須賈(史記)
藺相如への対抗心に目がくらみ、藺相如が見ていたもの(秦よりの防衛)を見失っていたことを恥じた廉頗は茨の鞭であがなおうとした。
対する須賈は魏の論客。ライバルの
自らの不明……? うーん、これはどちらかというと「秦にまつわる士大夫の謝罪行動」で結ぶくらいしかできないような気がするなあ。
孔翊(先賢伝)&申屠嘉(前漢)
孔翊は洛陽の長官として勤務したとき、庭に池をしつらえた。孔翊の元に自己アピールであるとか推薦文が届いたとき、すべて内容を見ずに池に投げ捨てたという。
申屠嘉は劉邦に仕えた武人で、文帝の時に丞相にまで至った。しかし私的な訪問は一切受けなかったという。
公正な人事を図るために徹底した態度を取るふたり。
陶潜(晋)&劉惔(晋)
東晋末の大詩人、陶淵明。彼が酒がないのを紛らわすために菊の花を摘んでいたら、太守が酒を送ってきてくれたという。
東晋中期の風流人、劉惔。彼の友人である許絢が死亡。その後の宴席にて、美しい満月を眺めながら「どれほど月が美しかろうと、いまこの場にはもう彼がいないのだ」と慨嘆した。
人々を引きつける、その風雅さ。
張良(史記)&張釋之(史記)
張良は若い頃謎のジジイに会った。そのジジイはいきなり自分の履いている草履を橋の下に投げ捨て、取ってこいという。内心ムカつきながらも取りにいってやった張良、その後も散々嫌がらせをされるのだがじっと付き合った。やがてそのジジイから一冊の書が渡された。なんとそれは太公望の著した兵法書だったのです! なっなんだってー!
漢の文帝に仕えた張釋之はその取り仕切りが公平なことで有名だった。あるとき黄老の術に長けたジジイが宮廷にやって来ると、居並ぶ官僚たちの中、張釋之の前で立ち止まり、いきなり「わしの草履の紐を結べ」と言い出した。張釋之も素直にそれに従う。なに張釋之を辱めとんねん! と周りがいきり立つと、「は? この中でこいつがいちばん才能があろう。なのでこいつを重んじさせるためにやっとんのよ」とジジイは言う。「賢人に仕える者は徳がある」というわけだ。つまりジジイを賢人とすれば(いやもちろん賢人なんですが)、張釋之の徳が重んじられるというわけだ。なっなんだってー!
賢きジジイに弄ばれた賢人ふたりは、やはり世に重んじられるのでした。
郭丹(後漢)&祖逖(晋)
前漢末、幼いころに母を亡くした郭丹は糊口をしのいで、のちに南陽郡からの使者として函谷関をくぐり関中入りした。このとき函谷関に対して「天子のお目に留まり、立身するまでは再びこの函谷関をくぐるまいぞ」と近い、光武帝の時代にその志を果たすのだった。
東晋初期の名将、祖逖。五胡勢力が亡命政権である晋に追撃を掛けようとする中、祖逖はひとり迎撃を誓う。「中原を清めることなくば、長江を再び渡るまいぞ」。結局中原は清められなかったが、その威名は大いに五胡勢力を恐れさせた。
不退転を誓う決意。
賈逵(後漢)&許慎(後漢)
賈逵、と言っても三國志に出てくるひとではない。後漢中期の学者である。春秋の注釈に熱を上げ、世間の出来事にはまるで関心を払わなかった。幼いころから学問のことばかりで、世の人々からは「物事についての質問ばかりするひとだ」と称されていた。
現存する最古の字典と言ってもいい『説文解字』を編纂した後漢の学者、許慎。彼もやはり学問の虫であり、その学識の深さは、当時の人から「当今無双である」とまで言われていた。
学問に強烈に入れあげていたふたり。
婁敬(前漢)&白起(史記)
婁敬は
一方の白起と言えば当然長平。四十万の兵の投降を受け入れた、ふりをして、ことごとく穴埋めにした。
トンデモネー大罪の政策をぶち決めたふたり、という感じのようですね。
蕭史(列仙伝)&宋宗(幽冥録)
蕭史は秦の穆公の時代の人。蕭、要は笛の名手であり、その音を聞くために鳳凰すら降り立ってきたという。
宋処宗が一羽の鶏を飼った。その鶏はとにかく鳴き声が長い。宋処宗がその鶏を溺愛したところ、なんとその鶏が人語を口にし始めるではないか。しかもその内容は極めて機知に富んでおり、鶏の言うことに従ったところ、宋処宗は栄達したという。
霊験あらたかな鳥に関与したふたり。
王陽(前漢)&馬援(後漢)
後漢
下手な蓄財を避けることによりかえって栄誉を後世に残したふたり。
劉整(南史)&第五倫(後漢)
南朝
後漢
甥のために頑張らない叔父もいれば、頑張る叔父もいるもんだね。
張敞(前漢)&謝鯤(晋)
前漢宣帝の時代、
東晋の名士、陳郡謝氏の始祖的位置にいる謝鯤。彼の特技は歌である。そんな彼が隣家の高氏の娘に迫ったところ下駄をぶつけられ、前歯を二本失った。周囲のものはそれを物笑いの種としたが、謝鯤は「けれども私の歌は健在だよ」と平然としていたという。
うーん、これは現代的観点から言うと男尊女卑の匂いがきついですねー。女にかしずいてなお平然といられるふたり、的ニュアンスですものね。
盛彥(晋)&姜詩(後漢)
三国呉末期の人、盛彦。彼の母親がほぼ失明状態になった。これに絶望した彼女は召使いへの虐待という形で憂さを晴らそうとする。憾みに思った召使いは彼女に感螬、虫の幼虫を食べさせた。盛彦はこの事態に動揺したが、なんとそれによって母氏の視力が回復した。
前漢末、姜詩は妻とともに長江の水を好む母のため数里の道程を掛けて汲みに行き、その期待に応えたという。神がその孝行を感じ取ったか、ついに家の側にある井戸から長江の水のような味がする水が湧き出し、また毎日二尾の鯉が取れるようになったという。
母に対する献身、そこに訪れる奇跡。
范滂(後漢)&成瑨(後漢)
後漢
やりての部下に任せて名声を落としたふたり。主はその徳によって全てを部下にやらせるとも言われているけど、その辺との食い合わせはどうなんだろう。
伯成(荘子)&嚴光(後漢)
堯の時代に伯成は諸侯となった。やがて王の座が舜を経て禹に引き継がれた頃、諸侯の座を辞し、晴耕雨読の生活を送るようにした。
厳光は光武帝の幼なじみ。マブダチ、とすら言っていい。しかし光武帝が天下の主となると彼の元を辞去し、日々釣りを楽しむ生活を送った。
天子に近い立場におりながらにして栄達を嫌い、世を遁じた隠者ふたり。
董遇(後漢)&譙周(三國志)
後漢末の学者、董遇。弟子のひとりが「書物を読む暇がない」と洩らすと「冬が年の余り、夜が日中の余り、雨が晴れ間の余り。この三つの余りに読むのが良い」と語った。
三国蜀の学者、譙周。彼は書物を読んでいるとき、うまく自分の中で物事が繋がると、ふふっとひとり笑ったという。
学問につとめるふたり。
將閭(史記)&王凌(三國志)
秦に仕えた將閭は
曹魏に仕えた王凌は
無実を訴え、死んだ名臣たち。
疏広・疏受(前漢)&陸賈(前漢)
財宝を元手にした余計な欲望を抱くことなく、終わりを全うした三人。
荀爽(後漢)&禰衡(後漢)
後漢末期の名士、
後漢末のフリーダムオッサンにして抜群の文人、のちにいろんなひとから嫌われまくって殺される禰衡さんであるが、
数多なす名士の中でも、彼は飛び抜けた。
陳不占(韓詩外伝)&揚雄(前漢)
斉の荘公が臣下に殺され、城内は大混乱! 陳不占は恐怖で全身ガタガタ震えながらも、君主の一大事に駆けつけなくてどうする! と車に乗り込んだ。しかし恐怖のあまり車の中で死んだ。えっ。
揚雄、あざなが子雲。前漢の大学者である。王莽と同僚的な立場であったが、漢より簒奪する姿勢に断固として反対。そのため収監されそうになった。そがれられないと悟った揚雄は窓から身を投げて自殺を図る。重傷こそ負うも失敗。
片や忠義のため死地に赴かんとして死ぬ、片や死地から逃れようとしておめおめと生きながらえる。なんとも対照的な死に様と生き様。
魏舒(晋)&周舍(史記)
魏舒は魏末晋初を生き抜いた大臣。素朴な性格をしていたが、よく人材を推挙した。不才を理由に辞職を申し出ても、司馬昭より「そなたのその堂々たる振る舞い、まさに人々の領袖たるに相応しい」と賞賛を受けている。
秦に仕えた趙簡子の配下のひとり、それが周舍だ。彼は直言を好み、それによって簡子は常に彼を煙たがっていた。しかしその死後には「彼の諤諤たる直言がなくなり、配下は唯々諾々とするのみだ。このままでは危うい」と語ったという。
人主に仕える有能な配下、それぞれのありよう。
鍾離春(列女伝)&姑射山の神人(荘子)
斉の無塩に住む鍾離春はとんでもない醜女として有名だった。中でもその肌は漆のごとく黒ずんでいたという。四十になっても嫁の行き先もないといったありさまで、ついに宣王の元に出向いて掃除女として使ってくださいと申し出る。ところが宣王、彼女と話してみたところ、たちまち斉の危うい現況を言い当ててみせる。彼女の助言通りにしたところ国は安定し、そのため宣王は彼女を正妃につけるのだった。
姑射山には神人がいて、その肌は氷のごとくであり、様々な奇跡を起こしたのだという。
色が黒かろうが薄かろうがすげえもんはすげえ、という感じでしょうかね。
邾子(左伝)&王思(魏略)
左伝定公三年、邾の荘公は邸内で門衛が瓶の水を流しているのを見て切れた。門衛が「ここで小便したやつがいたので、流しているのです」というとそれにも切れた。怒りのあまりベッドから飛び降りようとしたところ誤って火をくべる釜の中に落ちた。そのやけどが元で死んだ。
王思は三国魏の時代の人。能吏だがすぐかっとする性格だった。ハエが筆の端に止まる。追い払う。また止まる。激怒。立ち上がって追い払う。逃げていかない。激怒。ついに筆を地面に叩きつけて踏み折った。
激怒の度が外れるひと。うーん、ここに東晋の王述も加えたいですね。彼の怒りぶりも度を超してて好き。
苻朗(晋)&易牙(列子)
苻朗は前秦の宗族で、淝水の戦い直前に東晋に投降している。異常に味覚が鋭く、ガチョウを食べさせてみたところ、「この肉は白い羽の下、この肉は黒い羽の下にありましたね」とか言い出した。どうやって調べたかわからないが合っていたらしい。
斉の士大夫易牙もまた異常な味覚の持ち主。淄水と澠水の水を、舐めることによって判別したという。
ここには西晋の荀勖を混ぜてみたいですね。彼も「この粥を炊いた薪はちょっと痛んでますね」とか意味不明なことを抜かしています。合ってたらしいよ。
周勃(前漢)&灌嬰(前漢)
周勃、灌嬰は、ともに
馬良(三國志)&阮籍(晋)
三国蜀に仕えた馬良は五人兄弟だったが、その中で最も優れていた。その特徴が白い眉であった。
魏晋交代期に現れた竹林七賢のひとり、阮籍。彼は気に食わぬ相手と会うときには白目をむき、優れた人物と応対するときには黒目を明らかとした。
優れた人間は選ばれる。
黥布(前漢)&張良(前漢)
どちらも
陳遺(南史)&陶侃(晋)
東晋末に起こった、孫恩の乱。この討伐に駆り出された陳遺は炊き出しの窯の底にこびりついたお焦げが大好きで、お焦げをとにかく集めていた。やがて敗北、軍が散り散りになると陳遺はその集めたお焦げで食いつなぎ、無事に家に戻る。陳遺を心配していた母は心配のあまり視力を失っていたのだが、陳遺の帰還を知ると視力を取り戻すのだった。
東晋初期を代表する名将のひとり、陶侃。彼は若い頃酒による失敗をしでかしており、母と一定以上の酒は飲まないようにすると約束し、以降それを高官になっても貫き通した。
食べ物飲み物が結ぶ、母との縁。
楚昭王(孔子家語)&束皙(晋)
楚の昭王が長江を渡らんとしたときに長江で真っ赤な果実をひろった。すると孔子が「楚の昭王のもとにもたらされた吉祥です」と語る。陳でこのことが童謡に歌われていた、と言うのだ。ちなみに昭王の時代に呉からの攻撃を受けいちど郢を失陥している。「このときの王が昭王だったから、楚は滅びずにすんだ」と孔子は語ったそうである。
束晳は西晋時代の人。戦国魏の王墓から発掘された竹簡を解析したり、嵩山の麓で発見されるも誰も解読できなかった竹簡を読み解いたりしている。
んー、これは楚の昭王と言うより、孔子と束晳がその博識を讃えられている感じですね。
東方朔(前漢)&曹植(世説)
前漢武帝は文士たちを集め、席次によらず、その才によって側近に取り立てると宣言した。だいたいの人間はものごとの利害であるとか、ヤヤコシイ言葉などで自らを飾り立てては武帝に退けられていたが、
トンデモネー文辞の才覚を示すふたりを、数字に絡めて。
劉寵(後漢)&廉范(東観漢記)
後漢末期、
後漢
民を繁栄させた名地方官。
氾毓(晋)&郗鑒(世説)
西晋初期の青州に生きた氾毓は多くの孤児を匿い、育てた。そうした振る舞いが皇帝の耳にも留まり招聘を受けたが、拒否した。
東晋初期の名士、郗鑒。彼が西晋から東晋に亡命するに当たり、その名声より各地の人々から食事の援助を受けた。彼はそういった援助を受け取るたび、口の中に食べ物を残しておき、外で待つ子どものために残したという。
小さな子どもたちのためにできること。
苟晞(晋)&嚴延年母(前漢)
西晋末、かの石勒をもビビらせた名将苟晞がとる政務は酷薄の一言に尽きた。やがてその弟である
前漢
酷吏たち。ちなみに苟晞と厳延年は、ともに「
殷羨(晋)&陳泰(三國志)
東晋初期の名士、殷羨。彼が南方の郡に赴任することになったとき、当地に出向くついでに、と多くの手紙を届けて欲しい、と頼まれた。いったんは受け取るも、「なんで郵便屋さんごっこせにゃならんのだ!」と、手紙をすべて長江にぶちまけた。
魏晋交代期の名臣、陳泰。彼が地方長官として出向したとき、多くの者がまいないを陳泰の元に持ってくる。陳泰、一旦すべてそれらをあずかるも壁に掛けたままにしておき、手をつけず、中央に帰還するときにすべて返却した。
おれに頼るな。よそでやれ。
王述(晋)&荀粲(世説)
東晋中期の名士、王述はとにかくすぐ怒る。ゆで卵が箸でつかめない。怒る。床にぶん投げ踏もうとするが失敗。怒る。拾い上げて食った。
荀彧の末っ子、荀粲。彼は「女は顔だけあればいい」と憚らずに言い切る口であったが、そんな彼は妻を失うと憔悴しきり、他の人に「顔だけでいいのならすぐに後添えも見つかるだろうに」と言われても「アレの変わりなぞいない」と言い、一年後に死んだ。
ともに世説新語の編名ですね。
宋女(列女伝)&敬姜(列女伝)
春秋宋の女性が
春秋魯の
二人の偉大なる母。それにしても公父文伯さん、どこでもお母様にフルボッコにされててかわいそう……(爆笑しながら)。
鮑照(南史)&陳琳(三國志)
劉宋文帝の時代の文人、鮑照。彼は無名だったが、時の文学サロン主宰劉義慶に自らの文章を叩きつけ、その才覚を示して見せた。
建安七子のひとり、陳琳。彼は袁紹の下で曹操を悪し様にこき下ろす檄文をものし曹操を怒らせたが、むしろその文才に惚れ込まれ、曹操に採用された。
その文才、将をも動かす。
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