蒙求 中

李充四部りじゅうしぶ 井春五經せいしゅんごけい

李充(晋)&井丹(後漢)

 東晋中期ごろ、典籍についての注釈が交錯し、その内容が煩雑になっていた。そこを李充が整理し、四部にまとめる。政府も李充のまとめた内容を忠実に守るべし、とお達しを下した。

 光武帝の治世後半ごろに活躍した隠遁文人、井丹。あざな大春。かれは煩雑にして多岐にわたる五経の内容を完璧に把握していたため、「五經紛綸たり、井大春」と呼ばれていた。

 多岐にわたる経典の言葉を知悉していた二人。


谷永筆札こくえいひつさつ 顧愷丹青こがいたんせい

谷永(前漢)&顧愷之(世説)

 前漢成帝の時代に仕えた諫言のひと。その天文分析、災害分析は他者の追随を許さなかったという。ただし時の権勢者である王莽おうもうにすり寄った。

 東晋後期の画家、顧愷之こがいし。博学にしてユーモアのある言い回しにて人気を博した。中でもその絵画は絶品とされた。ただし時の権勢者である桓玄かんげんにすり寄った。

 抜群のスキル持ちも、しかし権勢には弱いのだ。


戴逵破琴たいきはきん 謝敷應星しゃふようせい

戴逵(世説)&謝敷(晋)

 東晋後期の隠者、戴逵。かれは琴の達人であったが、東晋の王族から宮廷お抱えの音楽家になって欲しいと言われたため、「宮仕えがしたくて琴を修めていたわけではないのだ!」と、琴を破壊してしまった。

 あるとき隠者を象徴するという星に異変があり、有名な隠者と言うことでみな戴逵の身に何か異変が起こるのではないかと思っていたが、実際に死んだのは別所に住む高名な隠者、謝敷でしたとさ。

 めでたしめで……え?


阮宣杖頭げんせんじょうとう 畢卓甕下ひつたくおうか

阮脩(晋)&畢卓(晋)

 竹林七賢阮咸のいとこ、阮脩。彼は非常に大雑把な性格で、杖の先に百銭をぶら下げてあちこちを散策しては酒を飲み、のびのびと酔っ払った。

 西晋末期を生き延びた畢卓は役人でありながら酒屋の蔵に忍び込み、酒を盗み飲みしてそこで寝込んでしまった。それで捕まるもまったく悪びれず宴会をそこでひらいた。

 自由気ままな酒飲みたち。


文伯羞鼈ぶんはくしゅうべつ 孟宗寄鮓もうそうきさ

公父文伯(国語魯語)&孟宗(三國志)

 公父文伯、宴会で出したスッポンがめちゃくちゃ小さかったと言うことで、宴会の主賓にぶち切れられたり、母親からも「なんでそんな恥ずかしいことをしたの!」と怒られたそーである。

 孟宗は貧乏人出身、呉で苦学の末役人に立志した人。かれは池の魚を管理する役人となれたので、これまでかけた労苦に報いるため母親に池の魚で寿司を作り、母に送った。そしたら母に「職権乱用とかアホか!」と切れられた。

 水の生き物を食べることに関する失敗談。失敗談って言うか、そこにキレられるんだ……と思わないでもない。


史丹青蒲したんせいぶ 張湛白馬ちょうたんはくば

史丹(前漢)&張湛(後漢)

 前漢元帝の時代の人、史丹。病がちの元帝が成帝を見て後継にすべきかどうか迷っていたところ、史丹は青蒲、すなわち元帝の寝床のそばで号泣。今更皇太子を変えてしまっては政が大混乱する、と訴え出た。元帝もそれを受け入れ、成帝を皇太子としたまま死亡した。

 後漢の張湛。剛直のひとであり、光武帝に対してもガンガン諫言をなした。白馬に乗ってやって来ることから、光武帝は「白馬生が、また諫めに来たか」と彼の参上を笑ったという。

 皇帝に対してもバシバシ諫めの言葉を投げかけるふたり。


隱之感鄰いんしかんりん 王修輟社おうしゅうてつしゃ

呉隠之ごいんし(晋)&王修(三國志)

 東晋末の名地方官、呉隠之。彼は母が死んだときに凄まじい慟哭を見せ、その姿を見た隣家のものが、息子に対し「おまえが役人を取り立てるような高官になれたなら、彼のような人材こそ役人にしなさい」と告げたという。

 漢末の名地方官、王修。彼は母を七歳の時に失ったのだが、その日は折しも村の祭りの日だった。しかし王修の慟哭の声があまりにも凄まじく、そのためについに祭すら中止させてしまった。

 名地方官は孝心もすごい。


阮放八雋げんほうはちしゅん 江臮四凶こうきしきょう

兗州八伯(晋)&江臮(晋)

 東晋初期の名士、阮放。かれはその自由闊達な振る舞いから、郗鑒ちかん胡毋輔之こむほし卞壼べんこん蔡謨さいも阮孚げんふ劉綏りゅうすい羊曼ようまんと並べ讃えられており、兗州八伯と呼ばれた。

 一方、同時代にいたた江泉こうせん史疇しちゅう張嶷ちょうぎょう羊聃ようせんも四伯と呼ばれていた。こちらは最悪なやつ4選である。そこで「凶」と大げさに表現された。

 すごいひともやばいひともいる。


華歆忤旨かきんごし 陳羣蹙容ちんくんしゅくよう

華歆(三國志)&陳羣(世説)

 曹丕が皇帝になりました! やったね! けど華歆は昇進を蹴ったし、陳羣は悲しそうな顔を隠そうともしませんでした。

 漢の遺臣たちは、その矜恃を曲げない。


王濬懸刀おうしゅんけんとう 丁固生松ていこせいしょう

王濬(世説)&丁固(三國志)

王濬懸刀おうしゅんけんとう 丁固生松ていこせいしょう

 西晋の天下統一に大いに寄与した名将、王濬。彼は四本の刀が梁にかかった夢を見、後日将軍に抜擢された。

 孫呉末期の三公となった丁固は腹の上に松の生える夢を見た。松の字は分解すると「十八公」となる。その言葉通り、夢を見た十八年後についに三公にまで上りつめた。

 夢が示した、昇進の兆し。


姜維膽斗きょういたんと 盧植音鐘ろしょくおんしょう

姜維(三國志)&盧植(後漢)

 三国蜀の最後のあだ花、姜維。彼は死後解剖されたところ、その胆がくそでかかった。

 劉備の師として知られる、盧植。彼の声はくそでかく、まるで鐘の音のようだった。

 でかい、でかい。


桓溫奇骨かんおんきこつ 鄧艾大志とうがいだいし

桓溫(世説)&鄧艾(三國志)

 東晋を代表する名将、桓温。その面持ちは常人ならぬ相であったという。

 職官を滅ぼす郡公を上げた、鄧艾。彼は貧しい少年時代から大志を抱いていたという。

 軍功を上げた名将は、若い頃からヤバい。


楊修捷對ようしゅうしょうたい 羅友默記らゆうもくき

楊修(後漢)&羅友(世説)

 曹操に仕えた楊修はあらゆる物事に対し、迅速なスピードで対応した。例えば曹操が鶏肋を眺めていたときに「漢中に大したうまみはないが、さりとて捨てるのは惜しい」と悩んでいると見抜き、漢中からの撤退を進言したと言われる。

 東晋後期の文人羅友は、桓温の蜀討伐に従軍。ぼーっとしているように見えたが、通過した場所の道路の広さ、周辺の植生などを完璧に記憶していた。このため蜀討伐の記録をの残すとき、大いに情報補填に貢献した。

 抜群の対応力、抜群の記憶力。


杜康造酒とこうぞうしゅ 蒼頡制字そうきつせいじ

杜康(曹操詩)&蒼頡(淮南子)

 杜康は「酒を造った神」とされている。儀狄ぎてきじゃないの? どうせ異名なんじゃねーのと思ってみても、この二つを同じ神とする説も見かけないのが不思議。

 文字の考案者たる蒼頡は黄帝こうていの臣下と言うことになっているらしい。うーむ、なら十八史略で名前が挙がっても不思議じゃない気もするんですけどねえ。


樗里智囊ちょりちのう 邊韶經笥へんしょうけいす

樗里子(史記)&邊韶(後漢)

 樗里子は秦の恵王の弟。甥の武王の宰相として活躍し、ユーモラスな語り口でありながらも大変な知恵者であったそうだ。死に妻子、墓の場所を選定すると「後の世に、天子の宮殿がこの墓を挟み込むのだろうな」と語った。事実漢の時代に、樗里子の墓を長楽宮と未央宮が挟む形になったという。

 邊韶は後漢のひと。非常にふくよかな体格で、またとても口が回るひとであったそうだ。あるとき昼寝していたところを弟子に「あの体格だからいろいろだるいんだろうなwww」とからかわれる。そこに対して「俺の腹は書庫。眠っているときに周公と論じあう、これは孔子もなしていたこと。で、師匠を嘲るのは何の典拠に基づくのかね?」と言い返したのだとか。

 論者ふたりといった感じだけど、それ以外には何の繋がりがあるんだろう……?


滕公佳城とうこうかじょう 王果石崖おうかせきがい

夏侯嬰(西京雑記)&王果(神怪志)

 前漢、劉邦の側近のひとりである夏侯嬰かこうえいの称号が滕公。馬に乗って東都門に至ったところで突然馬がここ掘れヒヒーンとし始める。そこを掘ってみれば、古代文字で「この佳城(=墓のこと)は三千年もの間土の中で眠るが、やがて日の目にさらされる。この地に滕公が葬られることとなろう」と書かれた石版が発掘された。なので夏侯嬰は死後その場所に葬られた。

 王果は将軍として蜀の地に就任することになった。蜀に向かう途中、崖に石版が引っかかっているのを見つけ、調査に向かわせる。そこには骸骨が転がっていた。側の石版にはこうあった。「長江はおれを三百年間漂わせた末、ついに王果に巡り合わせるだろう」。この出会いに感じ入った王果、この骸骨を懇ろに祀ったという。

 石版が見はるかす、遙かな未来。


買妻恥醮ばいさいちしょう 澤室犯齋じゃくしつはんさい

朱買臣しゅばいしん妻(前漢)&周澤しゅうたく妻(後漢)

 朱買臣は五十をちょっと過ぎたあたりで初めて漢の武帝に取り立てられ栄進したのだが、それまでは本を読んで芝刈りをしてばかりであったという。栄達の直前、妻はそんな朱買臣に失望して離婚。そして朱買臣は栄達後故郷に戻り、元妻と、元妻が新たに選んだ夫を食事に招待。元妻は恥ずかしさのあまり自殺した。いや朱買臣さんあんたもなかなかえげつねーことなさる。

 後漢の明帝の時代に宰相となった周沢はとにかく物忌みが大好き。一年365日のうち359日は斎戒しないと気がすまない口であったという。ところで斎戒の場である宗廟は女人禁制。だと言うのに周沢さんが宗廟内で倒れる。禁を破って夫を助けようとした奥さんに、周沢さんむしろ激怒、逮捕までさせた。世の人は奥さんにそれはもう同情したそうである。

 とことん報われない奥さんふたり。


馬后大練ばこうだいれん 孟光荆釵もうこうけいさい

明帝馬皇后(後漢)&孟光(後漢)

 後漢明帝めいていの皇后、馬氏。馬援ばえんの娘である。彼女はもともと皇后ではなかったのだが、別の妃が産んだ子、のちの章帝しょうていを見事に育て上げて皇太子にふさわしい存在とし、その功績から皇后に選ばれた。

 後漢の士人梁鴻りょうこうの妻、孟光。彼女は色黒で力持ちだった。嫁ぐに際してがんばって着飾ったが梁鴻は相手にしない。理由を聞けばともに隠遁する相手を探しているからだ、と言う。そこで孟光、いばらかんざしを刺し、質素ないでたちで改めて梁鴻のもとに。梁鴻は喜び、ともに山の中に消えていった。

 夫のために頑張った二人……としていいの、これ?


顏叔秉燭がんしゅくへいしょく 宋弘不諧そうこうふかい

顔叔子(毛詩伝)&宋弘(後漢)

 顔叔子が小屋で雨宿りしたとき、いきなり壁が崩れた。壁の向こうには寡婦がひとり。男女が同じ部屋で眠るのはヤバいと婦人が去ろうとするも、顔叔子はまぁまぁと彼女のためにろうそくを継ぎ足し続け、ついぞ手は出さなかったという。

 宋弘は光武帝の時代の人。光武帝の姉が未亡人になったので、宋弘の所に後妻に出すのはどうか、と言う話になった。ただそれは宋弘の今の妻と離縁することを意味する。そこで宋弘、栄達よりも今の妻との絆を取った。

 女性に対して貞節を示したふたり。


鄧通銅山とうつうどうさん 郭況金穴かくきょうきんけつ

鄧通(前漢)&郭況(後漢)

 無能ものだが前漢の文帝よりの寵愛ゆえに厚遇されていた、鄧通。占いによると「最終的には貧困の中で死ぬ」と言われたため文帝は鄧通に銅山を与えた。のだが、文帝死後横領の罪を疑われて財産を没収され、他人の家で死んだ。

 後漢光武帝の妃、郭聖通。その兄である郭況には多くの財産が下賜され、そのため豪勢な暮らしをするようになった。その豪華な暮らしぶりは「金穴」と呼ばれたそうである。

 え、どうしてこのひとにたくさんの財産が与えられてんの?


秦彭攀轅しんほうはんえん 侯霸臥轍こうはがてつ

秦彭(後漢)&侯霸(後漢)

 後漢で代々高官の地位にあった秦氏の末裔、秦彭。彼が赴任した郡の任期を終えて去ろうとすると、郡の人々がその轅(ながえ=車と馬とを繋ぐ棒)によじ登り、泣きわめいたという。

 王莽によって地方長官に任じられた侯霸は、王莽が敗れれば当然罷免される立場であった。しかしその統治に恩義を感じた者たちが、侯霸が去ろうとする車の前に引かれている轍に寝そべり、その行く手を遮った。

 立ち去ろうとする名地方官を慕う人々の姿。


淳于炙輠じゅんうしゃか 彥國吐屑げんこくとせつ

淳于髠(史記)&胡毋輔之(晋)

 輠というのは車の動きがきしまないための潤滑油を入れておく器。これをあぶるとそのうち油は溶けてなくなってしまうのだが、斉の威王・宣王に仕えた淳于髡の知謀は「いくら炙っても尽きることがない」。一つのキーワードで三日三晩語らせてもまったく問題ないレベルなのだという。

 対する胡毋輔之こむほし、あざな彦国は西晋せいしん東晋とうしん頃の名士で、兗州八伯えんしゅうはっぱくという竹林七賢ちくりんしちけんのパチモノに組み込まれている。彼は名言製造マシーンだったようで、「あの人の口から名言がノコギリの木屑かって勢いで出てくるんですけどどういうことなんですかね……」とか言われてる。

 見事な言説を提示するふたりだが、もうちょいマシな評価の仕方できなかったもんですかね……って思わせるところまで一緒なのが、また。


太真玉臺たいしんぎょくたい 武子金埓ぶしきんれつ

温嶠(晋)&王済(晋)

 東晋初期を大いに支えた名臣、温嶠。かれは親戚の娘がかわいかったので、北方で獲得した豪華な玉台を結納の品として差し出した。

 西晋末期の名士王済は凄まじい金持ちで、馬を飼う牧場の柵を金銭で作っていたという。

 財産をそこにぶっこむの!?


巫馬戴星ふばたいせい 宓賤彈琴ひつせんたんきん

巫馬期(呂氏春秋)&宓子(呂氏春秋)

 ふたりとも単父と言う地の長官で、その土地をよく治めていた。しかし前者は早朝から夜遅くまで方々を飛び回っての統治、後者はほぼ役所で琴を弾きながらの統治であった。ヘトヘトになっていた巫馬期は、宓子にどのように治めていたのかを問う。「そりゃ、人々に任せていたからさ。自力でどうにかしようとすれば疲れるに決まってる」。

 任せられるところはどんどん任せていきたいものですね。


郝廉留錢かくれんりゅうせん 雷義送金らいぎそうきん

郝子廉(風俗通)&雷義(後漢)

 郝子廉はものすごいドケチで食べ物も着るものもまるで手に入れようとしなかった。その一方で恵まれたことに対してはきっちり金を払った。姉に食事を提供して貰ったときにもムシロの下に銭を残したし、川で水を飲めば川に銭を投げ込んだという。

 雷義はかつて冤罪で死罪になりかけた人を救った。その人から金二斤の返礼があったが、受け取らない。その人は雷義の留守を見計らって、その家の屋根裏に金を隠して去った。雷義が屋根の修理をしたときに初めてその存在が発覚するも、そのとき持ち主は既に死んでいた。そこで雷義は役所にこの金を献上した。

 富や贅沢に関わろうとしないふたり、でいいのか?


逢萌挂冠ほうほうかいかん 胡昭投簪こしょうとうしん

逢萌(後漢)&胡昭(三國志)

 逢萌は前漢末に冠たる学者だったが、王莽おうもうに息子を殺されたため冠を都の門に掛け官を辞し、地方に隠遁し、その後二度と出仕はしなかった。

 後漢末の隠者、胡昭。彼は曹操そうそうよりの招聘に一度こそ応じたのだが、もれなく冠を脱ぎ、また冠を固定するためのかんざしを投げ出し、隠遁した。

 時の権勢者の招聘をはねのけた隠者ふたり。


王喬雙鳧おうきょうそうふ 華佗五禽かたごきん

王喬(後漢)&華佗(後漢)

 後漢明帝の時代の方術士、王喬。彼が明帝に謁見するとき、なんと二羽のカモに乗ってやってきたというのだ。ワァーオ!

 後漢末期の名医、華佗。彼の治療術に五禽の戯と言うものがあった。曰く、虎・鹿・熊・猿・鳥の動きを真似すればたちまち身体の不調は取れるだろう、と言うものである。あっこれストレッチとかヨガのたぐいですね。

 動物にまつわるすげー術。


程邈隸書ていばくれいしょ 史籀大篆しちゅうだいてん

程邈(戦国秦)&周史官(漢書芸文志)

 牢の番人だった程邈は罪を得て自分が牢獄に繋がれることになったものの、そこで隸書を産みだしたのだ、と言う。この文字は始皇帝に献上されて、公式フォントになった。

 史籀とは周の時代、子供に文字を教えるために編纂された教科書のこと。そのフォントが大篆であったという。

 フォントにまつわるお話。


王承魚盜おうしょうぎょどう 丙吉牛喘へいきつぎゅうせん

王承(世説)&丙吉(前漢)

 西晋の名士、王承。東海とうかいの太守となったときに小役人が王承の館にある池から魚を盗むも、「文王とて民に恵みを分け与えていただろう」と一顧だにしなかった。その寛容さに東海郡の者たちは王承を大いに慕ったという。

 前漢の宣帝せんていの丞相となった丙吉は道ばたで牛が喘いでいるのを見て飢饉の前触れを察し対策を打つも、道ばたでトラブルがあってもスルーした。飢饉は天下のこと、トラブルは町の長官の仕事、というわけである。

 名施政者の対応。


賈琮褰帷かそうけんい 郭賀露冕かくがろべん

賈琮(後漢)&郭賀(後漢)

 後漢末期に冀州きしゅう刺史となった賈琮は、取り決めでは刺史が任地入りするときに馬車の幌を下ろすべしとされていたが、「任地の実情も知らずして何が刺史だ」と、幌を上げさせたそうである。

 後漢明帝の時代に荊州けいしゅう刺史となった郭賀は、その統治があまりにも優れていたため、明帝より三公クラスの服を下賜された。州を視察する際、車の帷幕を引き上げさせ、任地の民の様子がよく見えるようにさせた。

 身の安全より、任地の状態を見るほうが大事。


馮媛當熊ふうえんとうゆう 班女辭輦はんじょじれん

元帝・馮氏(前漢)&成帝・班氏(前漢)

 前漢元帝げんていの側室ふう氏は平帝へいていの祖母に当たる。あるとき熊と虎を戦わせる催しがあったとき、熊が逃げ出した! みなが慌てふためいて逃げようとするところ、馮氏、平然と熊の前に立つ。「熊は一人食べれば満足します、陛下を食べさせることに比べればマシでしょう」と。結局馮氏も助かったのだが、これによって元帝は馮氏を更に重んじるようになった。

 前漢成帝せいていの側室班氏はんしは、成帝の外出に当たり車にて隣に座るよう命じられた。しかし班氏はそれを辞退。「聖王の隣には名臣が座るもの。しかるに昏王は美姫を隣に座らせます」と。この受け答えに成王は感じ入り、褒美を下した。ちなみに彼女はのちに、当時の猛獣趙皇后、こと趙飛燕ちょうひえんからの誣告も突っぱねている。

 皇帝のそばにあって、その側室としての気概を示しきった二人。


王充閱市おうじゅうえつし 董生下帷とうせいかい

王充(後漢)&董仲舒(前漢)

 後漢末の王充は貧乏であったため、市場で本を立ち読みしてその内容を暗記、その学識をもとに立身した。

 前漢武帝期の学者董仲舒は春秋を精読するため、窓にすだれを垂らし、三年間外部との関わりを断った。その学識は当時に及ぶ者がいなかったという。

 ガチモンの学びにより立身を遂げた二人。


平叔傅粉へいしゅくふふん 弘治凝脂こうじぎょうし

何晏(三國志)&杜乂(晋)

 曹操の下に仕えた文人何晏かあん、あざな平叔。彼は美男子すぎ色白すぎで、何も塗らなくともおしろいを塗っているかのようだった。

 東晋の名士杜艾とがい、あざな弘治。人となりも良かったが、何よりも人目を引いたのはそのぷるっぷるのお肌であったという。

 その顔が白かったり、ぷるぷるだったり。


楊生黃雀ようせいおうじゃく 毛子白龜もうしはくき

楊宝(続斉諧記)&毛宝(晋)

 楊宝が雀の雛を助けた。そしたらその主人たる西王母から別に使者がもたらされ、「あなたの子孫は繁栄するでしょう」という。楊宝自身は光武帝に召されても出仕しなかったが、息子の楊震は安帝、孫の楊秉は桓帝、曾孫の楊賜は霊帝、玄孫の楊彪は献帝及び魏の文帝の時に太尉となった。

 晋の将軍、毛宝は石虎に攻め滅ぼされ、川で溺れ死んだ。その配下兵もまた同じ運命を辿りかけたのだが、川に飛び込んできた巨大な白い亀により助けられた。その亀は過去、配下兵に育てられた恩義があったのだという。

 動物たちの恩返し。


宿瘤采桑しゅくりゅうさいそう 漆室憂葵しつしつゆうき

斉湣王妃(古列女伝)&魯漆室邑の女(古列女伝)

 斉の湣王びんおうの妃はもと桑摘み女で、首に大きなこぶがあった。湣王が彼女の仕事場近くに来たとき、他の者はぬかずくも、彼女は無視して仕事に精を出す。聞けば「桑を摘むことは教わったが王にぬかずくことは教わっていない」と言う。王が「面白い女だ、瘤があるのが難点だが」と言えば「私はこれを天職としていて、あなたとあずかり知らぬ存在。瘤の有無になんの障りがあるのか」とぴしゃり。すっかり気に入った湣王、彼女を妻として王宮に引き連れようとする。すると今度は「親に断りも無しで向かわせようとするのか? あなたは家出娘でも娶りたいのか?」とまたぴしゃり。くそうこのひと面白いな! 彼女が妃として健在であった間斉は栄えたが、彼女の死後間もなくえんよりの総攻撃を食らいました、とのことである。

 魯にある村、漆室にひとりの女性がいた。彼女は昔、しんからやって来た客を泊めたとき、彼の乗っていた馬を繋ぐ紐が切れて、彼女の畑のあおいを軒並みだめにされたことがあった。そんな彼女は国主たる穆公ぼくこうが年老い、太子が幼いことを憂えていた。隣人が「女子供の気にすることかね」と笑うと、過去の話を持ち出し、思いがけぬ事が思いがけぬ害に繋がるのだ、と語った。事実数年後に内乱から魯の政情は一気に悪化したという。

 ふたりの賢女を、植物に交えて引き合わせた感じか。繋がりがやや弱い感じもしなくはないけど、湣王のお妃がめっちゃ面白いのでよし!


韋賢滿籯いけんばんえい 夏侯拾芥かこうしゅうかい

韋賢(前漢)&夏侯勝(前漢)

 前漢の韋賢いけんは儒学をよく修め、宣帝せんていの時代に丞相となったが、老齢を理由に引退した。そして韋賢よりよく学んだ末子の韋玄成いげんせいもまた元帝の時代に丞相となった。このことから「子にはかごいっぱいの金子よりも経学を教えた方がよい」と魯のことわざに言われるようになった。

 同じく前漢の夏侯勝かこうしょうは宣帝の頃太子大夫となり、九十才で死亡した。彼は弟子たちに「学問をしっかりと修めれば栄達なぞゴミを拾うように容易い」と語っていた、という。

 学問を究めることで栄達した二人。


阮簡曠達げんかんこうたつ 袁耽俊邁えんたんしゅんまい

阮簡(世説)&袁耽(晋)

 竹林七賢阮籍の息子、阮簡。彼もまたおおらかで細かいことにはこだわらない人物だった。

 東晋前半の名士、袁耽。何事につけてもうまくこなす彼は、中でも博打を得意としていた。博打の負けが込んだ桓温の代わりに樗蒲を打ち、あっさり大勝するというエピソードも残る。ちなみにそのとき袁耽は喪中だった。

 細けえことは気にすんな!


蘇武持節そぶじせつ 鄭衆不拜ていしゅうふはい

蘇武(前漢)&鄭衆(後漢)

 前漢武帝の命を受けて匈奴きょうどに和親の使者として赴いた蘇武そぶはそのまま匈奴に捕らわれ、匈奴の地に暮らすよう迫られた。しかし最後まで漢への忠誠を貫き通した。壮年のときに匈奴に赴き、漢の土を再びふむときには髪が全て白くなっていたという。

 後漢明帝めいていの時代、使者として匈奴のもとに赴いた鄭衆ていしゅう。単于より拝礼するよう迫られるも拒否。単于が怒るも、それに対して一切引くことはなかった。のちに匈奴から漢に使者がもたらされたとき、匈奴の使者は「あの人の胆力は蘇武にも引けを取りませんよ」と語った。

 単于に対し堂々たる態度を貫いたふたりの使者。


郭巨將坑かくきょしょうこう 董永自賣とうえいじばい

郭巨(孝子伝)&董永(孝子伝)

 郭巨が貧乏暮らしのあまり自らの母と自らの子、どちらかを見放さねばならない事態に陥った。迷った末に子供を埋め殺そうとした。ら、掘った穴から金塊が出てきた。「天は孝子の郭巨に官位も人も諦めさせるつもりはない」と刻まれていたという。

 董永は父親が死んだとき、葬儀の費用が工面できないからと自らを奴隷として売り、その費用で葬儀をなした。奴隷暮らしの中ひとりの美女と出会ったので告白、結婚の約束をとりつける。とは言え結婚のためには自らの身を買い戻し、自由の身に戻らねばならない。すると妻が絹織物を多量に編み出した。なんと女性は天女だったのです! こうして董永は自由の身とはなったが、天女にはフラれた。

 孝行息子に報いる神。


仲連蹈海ちゅうれんとうかい 范蠡泛湖はんれいはんこ

魯仲連(史記)&范蠡(史記)

 魯仲連ろちゅうれんは戦国時代の優れた論客。戦国四君せんごくしくん平原君へいげんくんに重んじられたが、その後ふらりと失踪した。失踪前に「しんに仕えるくらいなら海に飛び込んで死んだ方がマシですよ」と言っている。

  范蠡はえつの勾践に仕えた軍師だったが、王からの猜疑心の犠牲になる前に湖を越え出奔。斉や陶で成功を収めた。

 知謀の士であること、亡命によって陰謀から逃れたことを同じくし、更に「水」をキーワードにして結びつけているわけだ。


文寶緝柳ぶんほうしゅうりゅう 溫舒截蒲おんじょせつぶ

孫文宝(楚国先賢伝)&路温舒(前漢)

 孫文宝は学業を修めるに当たり、柳の葉をつなぎ合わせて木簡の代わりとしたという。

 路温舒はガマの葉をつなぎ合わせて学び、やがてその学習態度が認められ立身、赴任先もよく治めた。

 何が何でも学んでやると木の葉に食いついてでも取り組んだ学習者ふたり。


伯道無兒はくどうむじ 嵇紹不孤けいしょうふこ

鄧攸(晋)&嵇紹(世説)

 西晋の名士鄧攸は東晋への亡命道すがら窮地に立たされ、つれていた兄の子と自らの子のどちらかを捨てねばならない、と言うときに兄の子を選んだ。子はまた作れるから、とのことである。しかしその後子に恵まれなかった。

 竹林七賢嵆康の息子、嵇紹。父が刑死するとき、嵇紹に向けて「そなたには山濤殿がおる、決して孤児になることはない」と語った。なおその嵆康は山濤からら官吏に取り立てたいという申し出を受けて絶交状を叩きつけ、そのことがもとで収監されている。

 父と子のただならぬ関係。


綠珠墜樓りょくしゅついろう 文君當壚ぶんくんとうろ

綠珠(晋)&卓文君(前漢)

 八王はちおうの乱まっただ中の西晋さいしん緑珠りょくじゅという美女がいた。八王のひとり司馬倫しばりんの参謀が緑珠を夫から強奪しようと目論んだため、彼女は楼閣の上から身を投げ、死んだ。間もなく夫も殺されている。

 前漢武帝ぶていの時代、卓文君たくぶんくんという女性が司馬相如しばしょうじょと駆け落ちした。この顛末に父親は怒り、彼女を勘当したのだが、これにより司馬相如との生活は貧困に陥る。そこで卓文君は居酒屋を開き自ら接客に当たったため、ついには父親も折れて家財道具を彼女のもとに送ったという。

 このひとのためにならば、と行動を起こす女性ふたり。


伊尹負鼎いいんふてい 甯戚叩角ねいせきこうかく

伊尹(史記)&甯戚(三斉略記)

伊尹負鼎いいんふてい 甯戚叩角ねいせきこうかく

 かなえは三本足の祭器であり、国の象徴として比喩されることが多い。つまり国を保つため、あえて暴挙に出てでも国運を背ったとなる。

 一方の寧戚は呂氏春秋りょししゅんじゅうの引く三斉さんせい略記りゃくきより。春秋五覇しゅんじゅうごはの筆頭として知られるせい桓公かんこうがお忍びで夜のお散歩をしていた。すると寧戚が、飼っている牛のをポコスカきながら、大声で桓公の治世を批判する歌を歌っていたという。桓公が話しかけてみると知者だったため、重臣として召し抱えた。

 批判なんぞをものともせず、正しい政のために邁進する二人ですな。


趙壹坎壈ちょういつかんらん 顏駟蹇剝がんしけんはく

趙壹(後漢)&顏駟(漢武故事)

 後漢の趙壹はずば抜けた才人でこそあったのだが、なにぶん激しく傲慢であった。もちろん時の名士の中には彼のすごさを実感するものも多かったのだが。そんな彼のすごさは役人の元にも届いたため、招聘の便りが幾度も届く。しかし趙壹、すべてはねのけ、貧乏暮らしの中で死んだ。

 前漢の武帝が役所に訪問したとき、かなり険阻な顔の老人が働いていた。聞けば文帝の時代から小役人としての働きのままであったという。その理由は顔が恐いから。武帝は彼をあわれみ、会稽太守に任じた。

 不遇の暮らしを甘んじるふたり。いや趙壹さんはやや隠者気味のような気もしないではありませんが。


龔遂勸農きょうすいかんのう 文翁興學ぶんおうこうがく

龔遂(前漢)&文翁(前漢)

 前漢宣帝せんていの時代、渤海ぼっかいで飢饉による群盗が発生。龔遂は群盗討伐軍を解散させ、民のうち武具を持っている者に対しては武具を買い取った上で牛を与えた。決め台詞は「なんでお前らは腰に牛をぶら下げておるのだ」であったという。こうして武力なしで群盗を鎮めた。

 前漢武帝ぶていの時代、しょくに赴いた文翁は蜀の学問の遅れを見て取り、蜀の民のうち才覚あるものを次々に長安に送り込んで学ばせ、戻ってきた者たちを取り立てて統治に当たらせた。こうして蜀の地の学問が盛んとなった。

 見事な地方統治を行ったふたり。


晏御揚揚あんぎょようよう 五鹿嶽嶽ごろくがくがく

晏平(史記)&五鹿充宗(前漢)

 斉の景公に仕えた晏子の車を引く御者は四頭の馬を率い、いかにも誇らしげであった。それを妻に「ご主人様があれだけ謙虚なのに、その召使いのあなたが威張り散らすなんて!」と怒られ、以後振る舞いを改めた。

 五鹿充宗ごろくじゅうそうもやっぱりその手のエピソード。前漢ぜんかん元帝げんてい時代の易学者で弁舌バリバリであったのだが、朱雲しゅうんという学者にベキベキにへし折られまくった。

 史書上でそれほど大きな作用をもたらしたわけでもない二人、ともに伸びた鼻をへし折られた感じですが、片方は改心、片方は挫折と、真逆なところもありますね。


蕭珠結綬しょうしゅけつじゅ 王貢彈冠おうこうたんかん

蕭育(前漢)&王吉(前漢)

 前漢宣帝せんていの時代の王吉おうき貢禹こうう哀帝あいていの時代の蕭育しょういく朱博しゅはくはともに幼い頃から友人同士であった。彼らはそれぞれが同じほうを向き、お互いに推挙し合い立身を遂げたという。

 若き頃から助け合った友人二組。


龐統展驥ほうとうてんき 仇覽栖鷹きゅうらんせいおう

龐統(三國志)&仇覽(後漢)

 三國志、劉備りゅうびの配下となった龐統ほうとうは抜群の才覚持ちであったが、地方官吏の地位にてうまく治績を上げられずにいた。そこでまわりのものは劉備に龐統が活躍する場を与えるべく進言、「麒麟に村は狭すぎます」と説いた。

 後漢桓帝かんてい頃の能吏、仇覧。罪を犯した者に倫理を説き改心させる。やがて厳格な統治を好む地方長官の下で「もっと厳しくすべきではなかったのか」と問い詰められたが「どんなに罪人がハヤブサを恐れたところで、鳳凰の前に立てば鳳凰になつくでしょう」と、ハヤブサたちの前で徳治を言い切った。

 ふたりの名統治官には狭すぎるステージなんだ。


葛亮顧廬かつりょうころ 韓信升壇かんしんしょうだん

諸葛亮(三國志)&韓信(史記)

 劉備りゅうびは庵を結び半ば隠遁していた諸葛亮しょかつりょうのもとに何度も足を運び、ついに臣下に迎えた。

 劉邦りゅうほうはそれまで無名であった韓信を大将軍に抜擢した。

 開国の英雄を助けた名臣の大抜擢。


王褒柏慘おうほうはくさん 閔損衣單びんそんいたん

王褒(晋)&閔子騫(孔子家語)

 王褒は父親を司馬昭に殺された。そのため晋の臣下としては仕えない意思を示し、日々柏にとりついては号泣、ついにその柏を枯らせてしまった。

 孔子の弟子、閔子騫(損は名)は継母にいびられていた。寒くてもまともに衣服すら与えられないありさま。一方継母の子には暖かい着物を与えている。この不平等に怒った父、継母を離縁すると言い出す。すると閔子騫は取りすがる。そうしたら何の罪もない継母の子たちが寒い思いをするから、と。これに感じ入った継母氏、その後は心を入れ替えたそうな。

 節をまっすぐ通す孝行息子ふたり。


蒙恬製筆もうてんせいひつ 蔡倫造紙さいりんぞうし

蒙恬(博物誌)&蔡倫(後漢)

 秦の将軍蒙恬が筆を開発した、と言うことになっているらしいのだが、いやどう考えてもそれ以前にもあっただろとツッコミも入っている。「ただまぁその呼称が定まってなくて、蒙恬の時にようやく呼び名が統一されたとかなのかもね」とは言われている。

 後漢和帝の時代に仕えていた宦官の蔡倫、竹帛は重いわ布帛はコストがかさむわで、もうちょっと記録媒体どうにかならんのかいと考えたそうである。そこでいろいろ工夫して紙を開発した。

 文房具を開発した二人。


孔伋緼袍こうきゅううんほう 祭遵布被さいじゅんふひ

孔伋(説苑)&祭遵(後漢)

 孔子の孫、孔伋が衛にいた頃、貧乏暮らしをしていた。それを見かねた金持ちが「どうせ捨てるようなものだから」と着物を送ったが、拒否。「ゴミ箱のような扱いされるなら貰わない方がマシだから」とのことだ。

 一方の祭遵は後漢ごかん光武帝こうぶていの配下、いわゆる雲台うんだい二十八将。挙げる功績は抜群だったが、報賞はすべて配下に与え、自らは質素な暮らしを貫いた。

 贅沢暮らしをよしとせぬ、ふたりの偉人を結びつけている。


周公握髮しゅうこうあくはつ 蔡邕倒屣さいようとうし

周公旦(史記)&蔡邕(後漢)

『韓詩外伝』に、周公旦は来客があれば、例え洗髪中でも髪を握ったまま応対に出たと書かれている。それだけ人材を逃したくなかったのだ、と。

 一方の蔡邕さいよう後漢ごかん末の文人トップオブトップ。そんな蔡邕がたくさんの人の訪問をさばく中、幼少ながらすでに抜きん出た文才を放っていた「王粲おうさん」の訪問に気付き、下駄を踏み外しながらも駆け寄り、その才を激賞した、と言うもの。王粲は後に曹操そうそう曹丕そうひの元で建安けんあん文学を花開かせる「建安七子」の一人として讃えられる。

 得難い人材のためになりふり構わぬ二人、という感じですね。


王敦傾室おうとんけいしつ 紀瞻出妓きせんしゅつぎ

王敦(世説)&紀瞻(世説)

 東晋初期に大きな存在感を示した、王敦。彼ははじめ多くの側妾を抱え込んでいたのだが、あるひとにそれを諫められたため、突然全員を屋敷から追い出した。

 東晋初期の名臣の一人、紀瞻の家にいる踊り子に、周顗がベタ惚れして連れ出そうとした。この振る舞いが罪に問われたと言うことなので、もしかしたら周顗によって連れ出されてしまったのかもしれない。ただ、周顗の才能が惜しいと言うことで、罪は不問となった。

 安定の女性の扱いの軽さ。


暴勝持斧ぼうしょうじふ 張綱埋輪ちょうこうまいりん

暴勝之(前漢)&張綱(後漢)

 前漢武帝ぶていの治世、地方反乱があった。暴勝之しょうぼうしは斧をぶん回して思いっきり地方反乱を駆逐した。

 後漢順帝じゅんていの時代、張綱は中央で奸臣が跋扈する中地方風俗の視察に出向かされることになった。そこで巡察に当たって乗る車の車輪を洛陽に埋め「中央の虎狼をどうにかしないまま地方の狸狐を見てどうするのだ」と、奸臣たちの弾劾状を提出した。もちろん奸臣たちからは煙たがられて左遷させられた。

 強すぎるふたり。ひとりは武、ひとりは悪を憎む心。


靈運曲笠れいうんきょくりゅう 林宗折巾りんそうせつきん

謝霊運(世説)&郭泰(後漢)

 東晋末~劉宋で大いに名を馳せた大文人、謝霊運は、被る笠をやや傾けていた。

 後漢桓帝期の名士郭泰かくたい、あざな林宗りんそうは、被る頭巾をちょいと曲げていた。

 人気者のファッションはみんな大好きですね。


屈原澤畔くつげんたくはん 漁父江濱ぎょふこうひん

屈原(史記)&漁父(史記)

 楚で重んじられながらも、数々の讒言にあい、ついには世を儚んで自殺した大詩人、屈原。彼が自殺するよりも前、心労で憔悴していたときに漁父と長江のほとりで出会ったのだという。そこで「おれひとりが正しいばかりにひどい目に遭う」と洩らした屈原に「知らんわ。俗塵にまみれてるからじゃ」と漁父はすげなく返した。

 いや、そのえげつない返し、嫌いじゃないですけど、もっとこうさぁ……w


魏勃埽門ぎぼつそうもん 潘岳望塵はんがくぼうじん

魏勃(前漢)&潘岳(晋)

 魏勃は寒微の出であったがなんとか高官に取り入りたいと思い、前漢建立の大功臣である曹参の屋敷の門の前を清掃し続けた。そしてついに曹参と面会する機会を得、しかも取り立てられた。

 西晋の大文人にしてイケメン、潘岳。ただし宮仕えに際しては徹底的なおべっか使いであり、時の権勢者である賈謐の車の真後ろにつき、車が立てる砂埃を喜んで浴びにいったという。

 おべっか使いのふたり。ちなみに魏勃は後に没落、潘岳は政争に巻き込まれ処刑されている。


京房推律きょうぼうすいりつ 翼奉觀性よくほうかんせい

京房(前漢)&翼奉(前漢)

 前漢元帝げんていの時代の易者、京房は抜群の腕前を誇っていたが、師よりは「わしの術を使って身を滅ぼす者がいるとしたら京房であろう」と危ぶまれていた。そして実際に時の権勢者である石顕せきけんらと衝突、結果刑死している。

 同じ時代に生きた翼奉は同じく占術に長けていたが、こちらは誰かと衝突することなく、あくまで元帝のためのアドバイザーとして身を全うしている。

 ふたりの占術者の明暗。


甘寧奢侈かんねいしゃし 陸凱貴盛りくがいきせい

甘寧(三國志)&陸凱(三國志)

 三国呉の勇将甘寧は金の使い方も凄まじく、絹織物で船を繋ぐといった荒技もしていた。

 同じく三国呉、陸遜の親族に当たる陸凱も、宰相の一族。当然めっちゃ金持ちである。

 三国呉の金持ちひと組。


干木富義かんぼくふぎ 於陵辭聘おりょうじへい

段干木(淮南子)&於陵の子終(古列女伝)

 段干木だんかんぼく文侯ぶんこうより尊敬こそ受けていたものの、魏よりの俸禄は固辞し、慎ましい生活を送っていた。文侯は「段干木は道義豊かな方である。自分は財貨こそ豊かではあるが、では道義と財貨が豊かであること、どちらが優れたことであろうか?」と語っている。

 於陵に住む「子終ししゅう」は賢人であり、楚王よりの招聘を受けるほどだった。しかしその妻が言う。「こうして細々と暮らしていることで十分だというのに、どうしてあえて楚国の憂いを負おうとなさるのですか?」その言葉を聞き、子終はそよりの招聘を断ったという。

 国主よりの尊敬を受けながらも、慎ましきを貫いた賢人ふたり。


元凱傳癖げんがいでんへき 伯英草聖はくえいそうせい

杜預(晋)&張芝(後漢)

 西晋に仕え、呉平定において多大な功績を残した杜預とよ、字は元凱。死ぬほど左伝が好きで、「左伝癖」とあだ名されていた。

 後漢末期の書家、張芝ちょうし、あざな伯英はくえい。彼の筆跡を見てしまえば、過去の偉大な書家たちの書体もかすんで見えるとまで称された。その書への情念はただ事でなく、ついには草書の聖人とまで呼ばれるようになった。

 ただ事ならぬ書への情熱。


馮異大樹ふういだいじゅ 千秋小車せんしゅうしょうしゃ

馮異(後漢)&田千秋(前漢)

 馮異は光武帝こうぶていに仕えた雲台二十八将の第七席、つまりトップ名将の一人。にもかかわらず謙譲を旨とし、皆が論功行賞について語っているところ、一人木の下でたたずんでいた。配下の兵たちはみな馮異の下でこそ働きたいと願い出たという。

 田千秋でんせんしゅうは特に取り柄があるわけでもなかったが、武帝が讒言によって皇太子を殺してしまったことの非をただ一人武帝に指摘した。これによって武帝ははっとなり、田千秋に感謝の意を示した。また田千秋を宰相に取り立て、足腰が弱っていることを理由に車椅子に乗っての参内が許された。

 え、どういう二人……? あえて言えば慎ましさがすごく、皇帝に寵愛された、とかそんな感じ?


漂母進食ひょうぼしんしょく 孫鍾設瓜そんしょうせつか

韓信(史記)&孫鍾(幽冥録)

 韓信は貧乏もので、日々の食事もろくに取れないありさまだった。それを憐れんだわた洗いの婦人に食事を恵んでもらった。そして漢の誇る大将軍として立身した韓信、彼女に厚く酬いたという。

 孫鐘は呉の孫堅の父である。貧乏暮らしをしていた中で瓜を何とか収穫できたのだが、折悪しく、そこに三人の客。しかも瓜が食べたい、と言う。孫鐘、自らの思いは殺し、彼らに食事、そして瓜を与えた。そうしたら、その三人は実は運命を司る神であった! 後日の息子以下については、あえて語るまでもないだろう。

 食に酬いる人たちの話。


壺公謫天ここうたくてん 薊訓歷家けいくんれきか

費長房(後漢)&薊子訓(神仙伝)

 壺公と言う仙人は天でやらかしを決め、地上に落とされていた。地上では慎ましい老人の振りをしていたが、壺の中に大邸宅を構え、そこで悠々と暮らしていた。あるときそれを費長房に見とがめられ、仕方がないので彼を壺の中に招待。そこでとんでもない贅沢暮らしをさせたのだそうな。「天から落とされたこと」そのものが罰、と言うことだろうか。

 薊子訓は数百年経っても老いることがなかった。あるとき政府の要人の家二十三ヶ所に招かれたのだが、すべての家に、同時に、同じ格好で、訪問したのだという。

 仙人こわい。


劉玄刮席りゅうげんかつせき 晉惠聞蟆せんえぶんば

劉玄(後漢)&司馬衷(晋)

 王莽おうもうのあとに立てられた傀儡皇帝、更始帝こうしてい劉玄りゅうげん。彼は玉座について百官に面したとき、羞恥のあまり顔を上げられず、じっと玉座をなでさするだけであった。

 暗愚の象徴として知られる晋の恵帝けいてい司馬衷しばちゅう。かれは庭園でガマの鳴き声を聞き「このガマはお国のために鳴くのか、自らのために鳴いているのか?」とトンチンカンな質問をし、周囲を唖然とさせたという。

 暗愚な君主は、亡国を招く。


伊籍一拜いせきいちはい 酈生長揖りせいちょうゆう

伊籍(三國志)&酈食其(前漢)

 三国時代、しょくに仕えた伊籍いせき孫権そんけんの元に使いした。ここで孫権より「無道の君の下でひーこらするのは大変だな」と劉備りゅうびをなじられたところ、「いえいえ、無道の君にちょいと拝礼することなぞさほどでもございません」と、孫権を無道の君扱いして返答。この返しに孫権は唸ったという。

 酈食其れきいき劉邦りゅうほうに面会したとき、劉邦はその足を側女に洗わせていた。なので酈食其、さっと軽く礼をしたのみ、つまり仕えるべき相手ではなくその辺の人扱いした上で言う。「そなたが本当に暴虐なるしんを打ち倒したいというのであれば、両足を投げ出したままで人材と会おうとは思われぬことですな」劉邦、この言葉に慌てて謝罪したという。

 人君の無礼な態度に対し、ぴしゃりと返す弁舌の士。


馬安四至ばあんしし 應璩三入ようきょさんにゅう

司馬安(前漢)&應璩(三國志)

 前漢の司馬安しばあん武帝ぶていの時代からその厳格な裁きなどから、実に四代の皇帝の治世にて九卿、つまり準トップの地位を確立していました。

 応璩おうきょは三国魏の時代、曹丕そうひ曹叡そうえい曹芳そうほうの三代にわたって侍中&散騎常侍、つまり皇帝のそばに侍って護衛や諮問を司る役にありました。つまり、やはりトップ高官です。

 長らくスーパーエリートの地位にあったふたり。


郭解借交かくかいしゃくこう 朱家脫急しゅかだつきゅう

郭解(前漢)&朱家(前漢)

 前漢は武帝ぶていの時代の大侠客、郭解。様々な悪事を犯すもとらわれることなく、やがて自らの悪事を悔いて心を入れ替える。とは言え郭解を悪く言う者たちについては、本人のあずかり知らぬまま取り巻きたちが密かに復讐していたのだという。最終的には武帝に捕らわれ、取り巻きもろとも皆殺しとなった。

 楚漢そかん戦争にて劉邦りゅうほうを大いに苦しめたためお尋ね者となった、季布きふ。かれは魯の朱家しゅかにて小間使いに身をやつしていた。そこは他にも多くの亡命者を匿ったりしていた。やがて朱家の主は季布の命を助けるよう密かに嘆願。最終的に季布は漢で貴顕にまでなるのだが、朱家のものは最後まで季布に恩を売ろうとはしなかった。

 漢代を生きる侠客たち。


虞延剋期ぐえんこくき 盛吉垂泣せいきつすいきゅう

虞延(後漢)&盛吉(会稽典録)

 王莽の時代に世が乱れたとき、虞延は常に甲冑を身をまとい、人々を守るため戦った。また地方長官としても徳ある統治を心掛け、ある祭日、獄につながれている囚人に「この日までに返ってくるように」と伝えて解放したところ、囚人はみな期日通りに帰還してきたという。

 盛吉もまた仁徳ある統治をなしていた。とは言え罪人は裁かねばならない。処刑執行の決裁をなすたび涙し、悲嘆に暮れたという。

 受刑者にすら慈愛を注ぐ役人ふたり。


豫讓吞炭よじょうどんたん 鉏麑觸槐さげいしょくかい

豫讓(史記)&鉏麑(左伝)

 豫讓はしん知伯ちはくに仕えた。知伯がちょう襄子じょうしに殺されたため、炭を飲んで自らの声を潰すなど、我が身も省みず報復を試みた。結局捕まり殺されるのだが、その姿勢に襄子は深く感じ入っている。

 鉏麑もやはり義士。横暴な暗君である晋の霊公れいこうに仕えた。霊公をしばしば諫めてくる趙の宣子せんしを殺すよう命ぜられたが、宣子のきりりと整った居住まいを目の当たりとし、どちらが正しいのか煩悶したあげく、彼を殺すことはできないと頭をえんじゅの木にぶつけて死んだ。

 義士のために身を損ねるふたりの豪傑。ここで方や趙氏を狙い、方や趙氏のために死ぬなど、その辺の対比も効いている感じですね。


阮孚蠟屐げんふろうげき 祖約好財そやくこうざい

阮孚(晋)&祖約(晋)

 東晋の名士阮孚はゲタの収集を好み、集めたゲタにロウを塗って管理していた。祖約は金銭の収集に熱を上げていた。あるときどちらの収集癖がマシかという話になったのだが、客がきたときに阮孚はゲタを隠そうともせず、祖約は懸命に隠しきれないゼニを隠そうと躍起になったので、これは阮孚のほうがマシだろう、と言う話になった。

 収集癖は病ですよね。


初平起石しょへいきせき 左慈擲杯さじてきはい

黄初平(神仙伝)&左慈(神仙伝)

 黄初平はあるとき謎の神霊力を得て羊数万頭を獲得した。ただし普段その羊たちは、何故か白い石にしか見えなかった。四十年あまり山間に潜み、人跡を断っていたという。

 左慈は漢末の人物。道術に長け、曹操に引見された。その手腕を習いたいと曹操に乞われるも断り、怒った曹操に毒酒を差し向けられた。左慈はそれを平然と飲みきった上で杯を屋根のほうに投擲。そちらにみな目が奪われた瞬間には、その姿をくらましていた。

 何やらよくわからん超常能力を持っているふたり。


武陵桃源ぶりょうとうげん 劉阮天台りゅうげんてんだい

陶淵明(桃花源記)&劉晨・阮肇(続斉諧記)

 陶淵明が書いた「桃花源記」の舞台、すなわち桃源郷はこの地にあったらしい。

 漢の明帝の時代、劉晨と阮肇は天台山で仙郷に迷い込んだ。そこでのんびり半年近く過ごしてみたところ、現世に戻ったら西晋武帝の治世であったという。

 いわゆる異郷訪問譚。


王儉墜車おうけんついしゃ 褚淵落水ちょえんらくすい

王僧倹(南史)&褚淵(南史)

 南斉なんせいの高官の移動を見送りにでた褚淵が橋を渡ろうとしたら橋が壊れ、川に落ちた。それを見た王倹もまた驚きのあまり車から落下してしまった。

 二人は傾いた劉宋を南斉に売り、ともに新たな国で高官となっている。祖国を売ったふたりに、罰が当たったのだ。


季倫錦障きりんきんしょう 春申珠履しゅんしんしゅり

石崇(晋)&春申君(史記)

 贅沢者バトルのお話である。西晋せいしん華やかなりし時に貨殖に励んだ石崇せきすう、あざな季倫は外戚の王愷おうがいとの贅沢バトルで、全長2km近くにも及ぶシルクのカーテンを作った。

 一方の春申君は、食客のうち上位のものには宝石でできた靴を履かせていたという。

 お前らさぁ……。


甄后出拜けんこうしゅつへ 劉楨平視りゅうていへいし

文帝甄皇后(三國志)&劉楨(三國志)

甄后出拜けんこうしゅつはい 劉楨平視りゅうていへいし

 曹魏そうぎ文帝の妻にして明帝の母、けん氏が宴会に姿を現す。誰もがその到来に畏れ多いと顔を伏せたが、その中にあって劉楨りゅうてい一人が顔を伏せず、甄氏をガン見。不敬と言うことで処刑にすらされかけた。

 クソ度胸の劉楨さん。なお当時の代表的文人集団・建安七子のひとり。どうでもいいけどふたつでワンセット逸話のパターン突然崩すのやめてくれませんかね?

 なお甄は「しん」とも読まれることがあるそうです。こっちの方が読みとしては一般的らしいんですが、正直そういう例外的な読み方が許せないので(鄭玄ていげんを「じょうげん」と読むのも許せない教信者)、本作では「けん」と読んでいます。


胡嬪爭摴こひんそうちょ 晉武傷指しんぶしょうし

武帝・胡氏(晋)&司馬炎しばえん(晋)

 晋の武帝と言えば後宮での夜とぎ選びを山羊にさせたことで有名だが、とは言えほとんどの場合胡氏こしの元に足繁く通っていた。つまり山羊は胡氏以外のオマケを選ぶときの振る舞いである。そんな胡氏と武帝が樗蒲で遊んでいたとき、白熱の余り胡氏が武帝の指を傷つけてしまった。「このおてんばものが!」と武帝が怒ると、胡氏も「私を誰だとお思いですか、私の父はこの晋を大いに守ったお方ですよ! 気性が激しくないわけがございますまい!」と逆に言い返した。

 ちなみに胡氏は男児に恵まれなかった。


石慶數馬せきけいしゅば 孔光溫樹こうこうおんじゅ

石奮(前漢)&孔光(前漢)

 前漢武帝に仕えた石慶せきけいは父や兄たちとともに歴代皇帝よりの覚えめでたく、みな高官につけられていた。武帝ぶていの乗る六頭引きの馬車の御者をしているとき、武帝から「何頭の馬が引いているのだ?」と聞かれ、きっちり一頭一頭を数えた上で報告。一門の中でもっとも大雑把と言われていた石慶ですらこれだけ恭しく皇帝に仕えていたという。

 前漢末に宰相となった孔光は非常に口の硬い人だった。家族にすらまともに仕事についての話もせず、宮殿の一つ温室殿にどんな木が生えているのかを聞かれても答えずに他の話でごまかすほどだったという。

 皇帝に対して恭しさを貫き通した人たち。


翟湯隱操てきとうおんそう 許詢勝具きょじゅんしょうぐ

翟湯(晋)&許詢(世説)

 適当は西晋末に名を馳せた隠者。その志高き振る舞いは、宮仕えを決して良しとせず、さりとて周辺の盗賊たちもその徳高さを知るあまり手を出せなかったと言う。

 東晋中期の隠者、許詢。彼は宮仕えを好まず、山水を味わうことを好んだ。加えて自力でどのような険しい山をも踏破できるだけの身体能力を持ち合わせており、世の人々に驚かれていた。

 隠者はしゅごい。


優旃滑稽ゆうせんかつけい 落下曆數らくかれきしゅ

優旃(史記)&落下閎(前漢)

 優旃は始皇帝の時代の役者。滑稽な物言いでやんわりと始皇帝や二世皇帝胡亥に諫言を為したことで知られている。例えば胡亥が城を漆で塗り上げたいと言えば「よござんす、よござんす。ただ漆を乾かすための小屋がえらくどでかくなって大変でしょうなあ」と言ったのだとか。彼は漢の時代に入って死んだ。

 落下閎は前漢の時代、唐都とともに暦を算出した。これが武帝の時代の暦として採用された。

 ……このふたりにどんな繋がりが? うーん、頑張ってみれば「地位の低いものが国のありようを定めた」あたりになるだろうか。


曼容自免まんようじめん 子平畢娶しへいひつしゅ

邴丹(前漢)&向長(後漢)

 前漢の邴丹へいたん、あざな曼容。哀帝の時代の清廉な儒者で、地方高官に取り立てられそうになったところを辞退、隠棲しました。その清廉さが後世に讃えられています。

 後漢の向長しょうちょう、あざな子平。光武帝頃の隠者で、あまりに貧乏だからと人より施しを受ければ、その不足分だけ受け取り、残りは返却したのだとか。そして子育てが終わった途端に山にふらりと山の中に消えていったのだそう。

 その慎ましき暮らしぶりを讃えられたふたり。


師曠清耳しこうせいじ 離婁明目りるめいもく

師曠(呂氏春秋)&離朱(慎子)

 晋の平公の時代、ひとつの鐘が鋳造された。その音色の調律はみなが整っていると言ったが、師曠ひとりが「整っていない」という。この鐘はその二百年後、衛の霊公に仕えていた師涓により改めて調律が狂っていることが指摘されたのだとか。

 離朱は様々な書物で「目がいい人」の代名詞としてこの人の名前が出てくる。

 超人的な耳と、目の持ち主。


仲文照鏡ちゅうぶんしょうきょう 臨江折軸りんこうせつじく

殷仲文(晋)&劉栄(前漢)

 東晋末の名士、殷仲文いんちゅうぶん。彼は簒奪者桓玄かんげんに従いながらも裏切り劉裕りゅうゆうにつき、今度は重用されなかったからと劉裕にも謀反しようと企てます。しかし、あえなく失敗。処刑されました。その前日、彼の顔がなぜか鏡に映らなかったそうです。

 前漢は景帝けいていの息子、劉栄りゅうえい。はじめ太子とされましたが間もなく廃され、臨江りんこう王にされます。やがて無礼があったとして罪に問われ、自殺します。それに先立って景帝の召喚を受け、面会した帰り、車の車軸がぼきりと折れたそうです。

 謀反者、無礼者に示された、天罰の予兆。


欒巴噀酒らんはそんしゅ 偃師舞木えんしぶぼく

欒巴(神仙伝)&偃師(列子)

 欒巴が朝会に遅刻した。すこぶる酔っていた。これを咎めたところ「いや、酒を吹き付けて火災を鎮めてきましてね」と言い出す。どういうことやねんと思って調べさせたところ本当に火災が起きていて、それが雨によって消し止められたのだという。ただし、その雨は酒気を帯びていた、と。

 周の穆王の時代、偃師と言う人物は木で自在に動く人形を作り出した。その動きがどう見ても人間であったため、王が怪しんで調査させてみたところ、やはり木でできていた、と言う。

 謎の術を操るふたり。


德潤傭書とくじゅんようしょ 君平賣卜くんへいばいぼく

闞沢(三國志)&厳遵(前漢)

 三国呉のひと闞沢かんたく、あざな徳潤とくじゅん。かれは農民の家出身でしたが、学問が大好き。そこで筆写のアルバイトをして、会わせて自分の勉強としたのだそうです。

 前漢の占術者厳遵げんじゅん、あざな君平。彼は成都にて占術の商売を行い、人々に生きる道を説き続けたそうです。占術師はいやしい職業とされていましたが、しかし彼は誇りを持ってその仕事を貫きました。

 自分の進むべき道のために働き続けたふたり。


叔寶玉潤しゅくほうぎょくじゅん 彥輔冰清げんほひょうせい

衛玠(晋)&楽広(晋)

 西晋末~東晋におけるナンバーワンイケメンとして名高かった衛玠の外見は、みずみずしい宝玉のごときである、と評された。

 西晋末の名士楽広は若い頃「彼の姿や心持ちはまるで水鏡のようだと讃えられていた。

 そのみごとな容姿立ち振る舞いの二人。


衛后髮鬒えいこうはつしん 飛燕體輕ひえんていけい

武帝衛皇后(前漢)&成帝趙皇后(前漢)

 前漢武帝の衛皇后はその髪の艶やかなるをもって武帝に寵愛された。なおのちに皇太子の誣告事件に巻き込まれ自殺している。

 同じく前漢、成帝の皇后であった趙飛燕。彼女は妹の趙女弟とともに、たぐいまれな踊りの才能を示して成帝に寵愛された。が、子をなすよりも前に成帝が死亡。一説には趙女弟といたしていたときに腹上死したと言われている。このため趙女弟は自殺。趙飛燕はその後も漢の政争の場に立ち続けたが、ついには王莽との政争に負けて自殺した。

 出自によらずその姿、そのスキルで皇帝の寵愛を得たふたり。悲劇的な最期も共通している。


玄石沈湎げんせきしんめん 劉伶解酲りゅうれいかいてい

劉玄石(博物誌)&劉伶(晋)

 劉玄石という人は千日間酒を浴びるようにかっくらい、千日間昏睡し、その後ようやく目覚めたという。

 劉伶は竹林七賢。酒にまつわるエピソードが竹林七賢には多いが、その中でも飲酒に特化している。あまりの酒癖に奥さんに禁酒を乞われたところ、「では神に祈りたい」と神に捧げる酒と肉を用意した。そして言う。「天は俺に飲酒の才能を与えた。飲むに決まってんだろ」と、供え物の酒を飲んで泥酔して寝た。

 酒にまつわるふたりの変人。


趙勝謝躄ちょうしょうしゃへき 楚莊絕纓そそうぜつえい

平原君(史記)&楚荘王(説苑)

 平原君=趙勝は賓客を尊んでいたのだが、その中にびっこを引く者がいた。平原君の側妾のひとりが彼を見て笑う。びっこの男は平原君に「あなたは賓客を尊び側妾を卑しむと聞いた。ならばあの女の首を落とせ」という。平原君、笑いながら適当に返事をする。するとしばらくして平原君のもとから賓客がひとり、またひとりと立ち去った。「あなたが賓客を卑しみ側妾を尊ぶのがわかったからだ」と例のびっこの男が指摘。そこで平原君、側妾の首を落とし、びっこの男に謝罪した。すると再び賓客が平原君のもとに集まるようになった。

 荘王そうおうが酒宴を開いたとき、ふと明かりが消えたという。このとき闇に乗じ、ひとりの士大夫が荘王の側妾のひとりをかどわかそうとするも、側妾は抵抗、男の冠の紐を引きちぎった。そして荘王に「明かりを早くともし、冠の紐が切れた男を捜し出してください。そいつが私に狼藉を働いたのです」と訴え出る。しかし荘王は言う。「酒の席でたがが外れてしまったのは私の責でもある。ならばそれで士大夫に恥をかかせるわけにはゆかぬ」と、みなに冠の紐を引きちぎるよう命じた。後日側妾に紐をちぎられた者は荘王のために奮迅の働きを示したという。

 う、うーん、これが美談っぽく語られるのはさすがというしかないですわね……。


惡來多力あくらいたりょく 飛廉善走ひれんぜんそう

惡來(史記)&飛廉(史記)

 惡來・飛廉はともにちゅう王の配下として働いた人物。怪力の配下と素早い配下とか、なんてコテコテな悪役たちなんだ……。


趙孟疵面ちょうもうしめん 田駢天口でんへんてんこう

趙孟(晋)&田駢(七略)

 魏晋期のしん(西晋か東晋かは不明)の名士趙孟は優れた弁舌の持ち主だが、顔に傷があった。そういったこともあり、何か難しい問題が発生したら「あの疵面に聞いてこい」と言われていたのだそうだ。

 一方,斉の宣王に仕えた田駢も弁舌に優れていた。「天口の駢」と自称していたのだという。その自称通り、どえらく壮大なことを説いて回ったのだとか。

 優れた弁舌者ふたりという感じですが、微妙に数あわせ的なふいんきも感じないではないですわね?


張憑理窟ちょうひょうりくつ 裴頠談藪はいがいだんしゅ

張憑(晋)&裴頠(晋)

 東晋中期の弁者、張憑。彼は家格が多いにものを言う東晋宮中に混じり込むと、そのみごとな弁で他者を唸らせ、ときの皇帝からは「そなたはまるで理屈のあなぐらのようだ」と称えられ、以後重用された。

 西晋で賈南風政権を大いに支えた裴頠は論壇に長け、そのすさまじさのあまり「まるで林や藪から論が飛び出てくるかのようだ」と評された。……あんまり褒められてなくないこれ?

 凄まじい弁者が、二人。


仲宣獨步ちゅうせんどくふ 子建八斗しけんはちと

王粲(三國志)&曹植(三國志)

 漢末の文人グループ建安七子の筆頭格王粲おうさん、字仲宣ちゅうせん。彼の文才は当時の文人の中でもずば抜けており、「ひとり先を進む」と言われた。

 曹操の息子、曹植。その文才はやはり凄まじいもので、後の世の謝霊運などは「この世に文才が百あるならば、そのうちの八十は曹植の元にある」と言った。ちなみに続きは「そんでぼくが十ね」と付け加えてもいる。

 抜群の文才を語る言葉。


廣漢鉤距こうかんぐきょ 弘羊心計こうようしんけい

趙広漢(前漢)&桑弘羊(前漢)

 前漢宣帝の時代の趙広漢は首都の統治者として漢代一とすら言われるほどの人で、不正や犯罪を強力に取り締まった。特に鉤距、すなわち潜入調査が非常に得意であったという。っが、宣帝のお気に入りまで処罰してしまったため、ついには腰斬刑を受けた。

 桑弘羊は前漢武帝の時代、暗算術の巧みさでもって高位にたどり着いた。そして財政の逼迫を立て直すための苛烈な徴税策を次々と打ち立てた。昭帝の時代に謀反を起こし、処刑された。

 うーん、これは「そのすげースキルを活かしてひどいことをした」ふたりと言うことになるのかなあ。


衛青拜幕えいせいへまく 去病辭第きょびょうじだい

衛青えいせい(前漢)&霍去病かくきょへい(前漢)

 漢の武帝の時代、衛青は匈奴きょうど征伐の陣幕内で大将軍の地位を拝命した。ちなみにこれが「幕府」の語源になっているという。霍去病は武帝より邸宅を下賜されたとき「匈奴も滅ぼし切れていないのに邸宅になぞ住まってはおれません」と下賜を辞退した。

 匈奴との戦いに全てを捧げた裂帛の二人。ちなみに叔父甥の関係でもある。


酈寄賣友りきばいゆう 紀信詐帝きしんさてい

酈寄(前漢)&紀信(前漢)

 劉邦りゅうほう亡きあと権勢を握った、呂雉りょち。彼女が死んだ後、漢室を傾けかけた呂雉の一族は誅殺される。このとき呂氏一門の呂禄りょろくと友人であった酈寄は、呂禄を欺いて漢に売り、呂氏誅滅の功績を得た。このため「酈寄は友人を売ったのだ」と言われた。

 劉邦が項羽に包囲を受けたとき、紀信は自分が囮になるうちに逃げよと、劉邦の衣服、馬車を譲り受け、それらを用いて項羽の前に降伏。それが本物かどうかを項羽が確認している隙を見て、劉邦は包囲から脱出した。その後紀信は項羽に焼き殺された。

 漢室を守るための詐術を操ったふたり。


濟叔不癡せいしゅくふち 周兄無慧しゅうけいむけい

王湛(晋)&晋悼公兄(左伝)

 西晋せいしんの名士、王済おうさいの伯父王湛おうたんは墓場の側に引きこもりっぱなしで愚か者と見なされていた。が、王済が気まぐれに話してみると凄まじい才人であったという。

 晋の悼公には兄がひとりいた。長幼の序から言えば兄が公位を継ぐべきであったのだが、麦と大豆の区別もつかないレベルの愚か者であったため、公位を継ぐことができなかった。

 愚かと思われていたものが賢く、賢くあるべきものが愚かであった、と言う組み合わせ。

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