蒙求

蒙求 上

蒙求もうぎゅう」は、著名人の業績を

覚えやすくできるように詩にしたもの。

特に、ふたりの人物がセットになることで

少しでも覚えやすくできるようにした、

と言うのが伺えます。


この詩は日本に伝わり、

蒙求和歌もうぎゅうわか」として広く親しまれたそうです。

十八史略じゅうはっしりゃくほどの知名度はありませんが、

こちらも日本人の中国史受容を見る上で

無視しきれないものがあると判断、

十八史略とともに紹介します。


蒙求 原文

https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%92%99%E6%B1%82?uselang=ja



王戎簡要おうじゅうかんよう 裴楷清通はいかいせいつう

王戎(世説)&裴楷(世説)

 曹魏末期、のちに西晋で立身することになるふたりの若者は先達たちから高く評価されていた。楚の評価が「王戎はシンプルに要点を拾い、裴楷は流れるように論旨を通じさせる」というものだ。

 若者よ、羽ばたかれよ。


孔明臥龍こうめいがりゅう 呂望非熊りょぼうひゆう

諸葛亮(三國志)&太公望(史記)

 三国志の諸葛亮が伏龍ふくりゅうと呼ばれていたのは、もはや有名(臥も伏せる、の意味です)。ここに対応して、周の文王が人材を探したときに「得るのは龍でも神獣でも、熊やヒグマ、虎や狼でもない。王の補佐だ」と占いに出た。

「在野に埋まる、国づくりを大いに助けた賢人」をセットにしてたたえたわけですね。いやぁ、そこはあえて呂望非龍でいってほしかったとですよ……w


楊震關西ようしんかんせい 丁寬易東ていかんえきとう

楊震(後漢)&丁寬(前漢)

 後漢中期の名士、楊震。彼の徳高さは、「函谷関の西に住まう孔子こうしだ」とまで呼ばれ、崇敬の的となっていた。

 前漢初期の学者、丁寬ていかん。彼は師について易を学び、抜群の学識を得ると東方に帰還した。

 偉大な学者、西と東。


謝安高潔しゃあんこうけつ 王導公忠おうどうこうちゅう

謝安(世説)&王導(世説)

 東晋後期の大宰相謝安は 40 歳になるまで仕官せず、東方で清高潔癖な暮らしを貫いた。

 東晋を打ち立てた大宰相王導は、多大な功績こそ挙げたものの常に皇帝を最優先とする姿勢を貫いた。

 東晋のふたりの大宰相、その性質は結構反対。


匡衡鑿壁きょうこうさくへき 孫敬閉戶そんけいへいこ

匡衡(前漢)&孫敬(楚国先賢伝)

 貧乏暮らしであったため明かりをともす余裕もなかった。そこで家の壁に穴を開け、隣の家の明かりで書物を読んだという。最終的には元帝の時代に丞相にまで至っている。

 昔楚の国にいた孫敬は引きこもって書の虫と化していたのだそうだ。天井からロープを垂らし、寝落ちしそうになると首が絞まるギミックを施して。そんな孫敬が町中に出てくると人々から「閉戸先生が来たぞ!」と言われていたという。

 ややアブネー書の虫ふたり。


郅都蒼鷹しつとそうおう 寧成乳虎ねいせいにゅうこ

郅都(前漢)&寧成(前漢)

 前漢景帝けいてい時代の人、郅都。彼は相手がどんなにえらい人間だろうが怖じけることもなくストレートに諫言を決め、人々に恐れられていたそうだ。

 同じく景帝に仕えていた寧成。やはりビシバシと人をしばくタイプの人であった。あまりの厳しさに「アレに会うくらいなら子を産んだばかりの虎に出くわした方がマシだ」とまで言われた。

 正しさのために人をビシバシ裁く二人。


周嵩狼抗しゅうすうろうこう 梁冀跋扈りょうきばつこ

周嵩(世説)&梁冀(後漢)

 東晋とうしん黎明期を支えた名臣周顗しゅうぎの弟、周嵩しゅうすう。彼は何かといろんなひとに噛みつく口だった。そのことには自らも自覚していたようで、自らを評するにあたり性狼抗、狼のように上の者に従わない、と語った。

 梁冀は後漢後期に現れて権勢を振るい、あるいは高官を、果てには皇帝すら殺害するに至り、人々より跋扈将軍と呼ばれた。

 その性分のまま、周囲に害をもたらした二人。


郗超髯參ちちょうぜんさん 王珣短簿おうしゅんたんぼ

郗超(世説)&王珣(世説)

 東晋の名将桓温にはふたりの名幹部がいた。豊かな髭を蓄えた郗超、おちびの王珣である。ふたりは桓温をよく笑わせ、よく怒らせたという。

 桓温を大いに支えたふたり。


伏波標柱ふくはひょうちゅう 博望尋河はくぼうじんか

馬瑗(後漢)&張騫(前漢)

 後漢初期の伏波将軍、馬瑗ばえんは老いてなお南方の蛮夷を伐たんと出征。本人は暑さにたたられて死亡してしまうのだが、南方に柱を立て、後漢の南方への支配拡大の証を示した。

 前漢武帝の時代、張騫ちょうけん博望はくぼう侯に封じられた。武帝に命じられ西方に出立、多くの国との通商交渉をなし、その足跡はついに黄河こうがの河源にまで至った、とされる。

 漢の版図を大きく押し広げた二人の足跡。


李陵初詩りりょうしょし 田橫感歌でんおうかんか

李陵(前漢)&田橫(前漢)

 前漢の武将、李陵。匈奴きょうどに囚われて捕虜、と言うか客将として仕えることになった。そこに蘇武そぶという漢将が新たに捕まるものの、かれは断固として漢に帰還することを主張。認められる。蘇武を見送る際に李陵が送った詩、それが五言詩の始まりであった。

 せい田横でんおうかんの皇帝劉邦りゅうほうに仕えることをよしとしなかった。再三再四の招聘に根負けし出仕を受け入れたが、その途上で自殺。斉の臣下らもあわせて自殺した。とは言え劉邦の元に死体を届けなければならない。そこで棺桶を引く任を得た者は、表向き悲しみを示すことが許されないため、思いを歌に語らせた。これが「挽歌」の語源だ。なお挽歌を詠ったものも、劉邦に謁見ののち自殺している。

 悲しみにまつわる、二つの歌の興り。


武仲不休ぶちゅうふきゅう 士衡患多しこうかんた

傅毅(後漢)&陸機(晋)

 後漢章帝しょうていの時代に活躍した文人傅毅ふき、あざ武仲。彼は抜群の詩才を備えてこそいたが、いついつまでもずっと書いていないとその詩才を維持できなかった、と他者より批判されていた。

 もとに仕え、やがて西晋せいしんに仕えることになった三國志さんごくし陸遜りくそんの孫陸機りくき、あざな子衡。彼は抜群の文才を備えていたのだが、それ故にトラブルにも巻き込まれ、最後は八王の乱にて剛直を貫き、死んだ。

 すごい文人、性格も剛直。


桓譚非讖かんたんひしん 王商止訛おうしょうしか

桓譚(後漢)&王商(前漢)

 後漢の桓譚は音曲をたしなむひとで、光武帝こうぶていのそばに侍ることが許されていた。予言書好きの光武帝があるとき政策を予言書に基づいて決定しようとし、桓譚に相談を持ちかける。すると桓譚は首を振り、言う。「予言書は予言書、経典の言葉を優先すべきである」と直言した。光武帝は激おこしたがなんとか殺されずには済んだ。

 前漢平帝へいていの治世時、長安に、唐突に「洪水到来……か!?」のデマが飛ぶ! このデマはなぜか皇帝まで巻き込まれる大騒ぎとなったのだが、その中にあって王商、泰然と「城郭をも侵すほどの洪水? そんなもの来るわけないでしょう」と一刀両断。結局洪水は来なかった。

 占いやデマと言ったあやふやなものを切って捨てた二人。


嵇呂命駕けいりょめいが 程孔傾蓋ていこうけいがい

嵇康・呂安(世説)&程子・孔子(孔子家語)

 魏晋交代期の名士、嵇康けいこう呂安りょあんはお互い遠いところに住んでいたが、しょっちゅう駕に命じて遠路はるばる会っていた。

 また孔子も、「たん」と言う地で出会った賢人の「程子ていし」と意気投合して、車を止めて蓋、つまり屋根を傾けて話し込んだ。

 意気投合する二組の賢人ペアの、車にまつわるエピソードを引き合わせた感じだ。


劇孟一敵げきもういちてき 周處三害しゅうしょさんがい

劇孟(前漢)&周處(世説)

 前漢、呉楚七国ごそしちこくの乱ころ、呉楚の王は劇孟を獲得できなかった。漢サイドでは「彼をひとり得れば一国分の兵力を得たようなものだ」と大喜びだったのだが。

 西晋末期、地方反乱の鎮圧に向かい、敗死した周処しゅうしょ。彼は昔乱暴者で、地元の三大災厄のひとりに数えられるほどの暴れぶりだった。ちなみに他の二害は虎とワニである。

 激烈に勇猛だけど、益と害。


胡廣補闕ここうほけつ 袁安倚賴えんあんいらい

胡廣(後漢)&袁安(後漢)

 後漢あんてい帝の時代のひと、胡広。三公にまで上りつめた彼は皇帝の落ち度を諫めるなどはなかったが、それとなくその漏れを補う形で補佐をした。

 後漢章帝しょうていの時代の大臣、袁安は汝南じょなん袁氏栄達の祖とも言うべき人物だ。章帝が死亡し、幼い和帝わていが立ったとき、外戚の力が強まっていたが、袁安は一人その気風に立ち向かい、宮中の誰もが袁安を頼ったという。

 皇帝のために忠勤をなした大臣たち。


黃霸政殊おうはせいしゅ 梁習治最りょうしゅうじさい

黃霸(前漢)&梁習(三國志)

 前漢宣帝せんてい時代の名地方官、黄覇。彼は地方統治では抜群の手腕を見せた。その腕を買われてついには宰相にまで上りつめた。もっとも宰相としての統治は地方長官時代の時ほどの冴えを見せなかったそうだが。

 後漢末期、地方の動乱を見事に収めきった梁習。曹操そうそうがその手腕を評価して地方長官に抜擢。すると当時で最も優れた統治者である、とまで讃えられるに至った。

 名地方長官ふたり。


墨子悲絲ぼくしひし 楊朱泣岐ようしゅきゅうき

墨子(墨子)&楊朱(淮南子)

 墨子は真っ白な糸を見て泣いた。この後この糸が様々な色に染め上げられるのを思ったが故だという。

 楊朱は分かれ道に立って泣いた。ここから行く先が様々に分かれることを悲しんだためという。

 元々は同じであったものがバラバラにならねばならないことを嘆いたとのこと。


朱博烏集しゅはくうしゅう 蕭芝雉隨しょうしちすい

朱博(前漢)&蕭芝(孝子伝)

 前漢哀帝時代の人。カラスたちが宮殿にこぞっているのを見て「これは皇帝権が軽いあかしだ、御史中丞=不適格な官吏を弾劾する責任者がいないためである」と語り、自らがその座について綱紀引き締めにかかった。

 蕭芝は孝行者であり、彼が出仕すると「めでたいこと」の象徴であるキジが付き従うように飛んできたという。

 取りの集うふたり。ともによきひととしては描かれている。よきひとの方向性は結構違うけど。


杜后生齒とこうせいし 靈王出髭れいおうしゅつし

成帝杜皇后(晋)&靈王(左伝定公6)

 杜皇后は東晋とうしん成帝せいていの皇后。あの杜預とよの曾孫だ。美人だったが歯がなかったため、結婚ができなかった。しかし成帝との成婚が決まると歯が生えてきたという。

 また前 601 年に「周にヒゲの王が生まれる。彼は国をよく治めるだろう」と予言が下された。そして約三十年ほどして生まれた霊王は生まれながらにしてヒゲを蓄えていた。実際に彼の治世は比較的安定したものになったという。

 政治の中枢に立ち、栄えたふたりの霊異譚ですね。


賈誼忌鵩かぎきふく 莊周畏犧そうしゅういき

賈誼(前漢)&莊周(荘子)

 前漢の学者である賈誼は早熟の天才で帝よりの覚えもめでたかったのだが、あるとき不幸を呼ぶ鳥、鵩を目撃してしまった。その後三十三才の若さで夭折した。

 荘子は田舎で悠々自適の暮らしをしていたが、あるとき宮廷よりの召喚を受ける。荘子はそれを蹴った。いわく、「何が悲しゅうて生贄の牛になりにいかにゃあかんのだ」と。

 共に抜群の知恵を備えた天才。そして動物の姿に、己が凶兆をみたわけだ。


燕昭築臺えんしょうちくたい 鄭莊置驛ていそうちえき

燕昭王(史記)&鄭当(前漢)

 燕の昭王が人材を集めたいと心するに当たって郭隗より「私を厚遇すれば人材が集まってきましょう」と言われたので土台を盛り、その上に邸宅を築いた。その結果人材がわんさと集まってきたという。

 前漢の人、鄭当は恵帝に仕えるに当たり、各地からやって来る訪問客を遅滞なく取り次げるよう、長安周辺に駅舎を建てて、その接待に偏りがないよう努め、それでもなお不公平がないか、よりよき情報の報告に後れがないかを恐れたという。

 人材獲得のための妙案を示すふたりだけど、一休さんのとんちと地道で誠実なお仕事とで、だいぶ性質は違っている印象。


瓘靖二妙かんせいじみょう 岳湛連璧がくたんれんへき

衛瓘・索靖(晋)&潘岳・夏侯湛(世説)

 西晋の衛瓘と索靖はともに書道の達人。そこで両名は「二妙」と通称された。

 同じく西晋の潘岳と夏侯湛。ふたりはともに文筆で名を知られ、かつふたりが並ぶとイケメン祭となるため「璧玉が連なる」と通称された。

 西晋はえろうすごいお方ばかりどすなー。


郤詵一枝げきしんいちし 戴憑重席たいふうじゅうせき

郤詵(晋)&戴憑(後漢)

 西晋武帝ぶていに抜擢された地方長官、郤詵げきせん。彼は武帝より自らの才能がどれほどかと聞かれたとき、「まあ一流は一流でしょうが、小者ですよね」と自任した。その表現が宝玉の林の一枝、崑崙山に転がる石、というものだ。

 後漢の創始者、光武帝が正月の席で臣下らに経典に関する難問を提示し、答えられなかったら席を奪う、といった催しを開いた。その中にあって戴憑は五十問もの難問に答えきり、その才覚を燦然と示した。

 皇帝の前で示した文人たちの矜恃と意地。

 

鄒陽長裾すうようちょうきょ 王符逢掖おうふほうえき

鄒陽(前漢)&王符(後漢)

 前漢創立期に活躍した文人、鄒陽。彼が仕えた呉王が反乱を企んだ。そこで鄒陽は「あんたがそうやって良からぬことを企むんなら、あんたのために長い裾を引きずって仕えるわけにはまいりませんな」と言って諫める。聞き入れらなかったため鄒陽は呉王のもとを去った。

 後漢の名士皇甫規は財貨で郡太守の座を得たものとの面会は拒絶したが、世俗と交わらず学名を高めていた王符とは喜んで会った。「地方長官どのは逢掖を着た儒者殿に劣るらしい」と世に言われるようになったという。

 高節の名士が着ていた服。


鳴鶴日下めいかくじつか 士龍雲間しりゅううんかん

荀陰(世説)&陸雲(世説)

 西晋の張華の元にふたりの名士がやって来る。ふたりはそれぞれ自己紹介する。

「私が太陽の下で鳴く鶴。荀陰です」

「私が雲漢を飛ぶ龍、陸雲です」

 なお陸雲はこのあとの議論で荀陰にコテンパンにされた。


晉宣狼顧せんせんろうこ 漢祖龍顏かんそりゅうがん

司馬懿(世説)&劉邦(漢書)

 晋の宣帝、つまり司馬懿しばい。狼顧の相自体は狼が後ろを振り返るように、首が真後ろにまで回るさまを言う。が、そこに晋書が「帝內忌而外寬,猜忌多權變。」と書いたため寛容に見せかけて猜疑心の強い人の代名詞と化した。

 対する劉邦は龍のごとき貴人の顔、とされる。なんというか劉邦ってクソ親父&クソ器デカ親父って感じで、どうにもこうにも規格外の存在過ぎるんですよねえ……。

 国を興したふたりの高祖の面相にまつわる話。


鮑靚記井ほうせいきせい 羊祜識環ようこしきかん

鮑靚(晋)&羊祜(晋)

 西晋の鮑靚は、自分が前世で井戸に落ちて死んだことを記憶していた。

 同じく西晋の羊祜は前世が隣家の子どもであり、その時におもちゃとしていた金のわっかのありかを言い当て、まわりを驚かせた。

 前世を知るふたり。


仲容青雲ちゅうようせいうん 叔夜玉山しゅくやぎょくさん

阮咸(晋)&嵇康(世説)

 竹林七賢の阮咸は、その闊達さたるやまるで青空に浮く雲のようであった。

 同じく竹林七賢の嵆康はきりりとしたイケメンだったが、酒が入るとでろでろになり、「あれをくずおれた宝石の山というのだな」と山濤に言われている。

 竹林七賢はすてき。


毛義捧檄もうぎほうげき 子路負米しろふべい

毛義(後漢)&子路(孔子家語)

 毛義は後漢の人。孝行者で知られ、顕職に推挙され喜びを顔に浮かべたが、それは親の暮らしのためだった。親が死ぬと即辞職した。

 孔子の高弟、子路もまた親のために重い米袋を抱えて遠路はるばる移動した逸話を持つ。

 親のために全力を尽くす、ふたりの孝行者が並べ讃えられている。


江革巨孝こうかくきょこう 王覽友弟おうらんゆうてい

江革(後漢)&王覽(晋)

 後漢初期、戦乱に巻き込まれた江革は老いた母のために身を粉にして働いた。その孝行ぶりはやがて章帝の耳にまで届き、ついには三公司空の副官にまで昇進した。

 のちに子孫が南朝第一の名族として知られる琅邪王氏として活躍することになった、王覧。彼の母が兄である王祥をしばしば害しようとした。それに気付いた王覧は徹底して兄を守り、時には死をも恐れないほどだった。

 母のため、兄のためになら命をも惜しまず仕えた二人。


蕭何定律しょうかていりつ 叔孫制禮しゅくそんせいれい

蕭何(史記)&淑孫通しゅくそんつう(前漢)

 劉邦りゅうほうのもとでルールを定めたふたり。蕭何が法律を、叔孫通が儀礼を制定した、と言うわけだ。つまりこのふたりが漢の屋台骨をつくったとも言える。


葛豐刺舉かつふうしきょ 息躬歷詆そくきゅうれきてい

諸葛豊(前漢)&息夫躬(前漢)

 前漢の諸葛豊しょかつほうの剛直さは凄まじく、どんな立場の人間であっても弾劾すべきものは弾劾した。このため元帝げんていの時代、しばらく会わなかった相手には「諸葛豊殿にぶち込まれでもしていたのかね?」とジョークが交わされたという。

 前漢哀帝あいていの時代の人、息夫躬そくふきゅう。その実直さを買われ哀帝に抜擢された途端、当時宮廷で権勢を誇った人間をみんな言論でぶった切った。もちろんそんなんだから恨まれて投獄され、そこで憤死した。

 権勢なにするものぞ、剛直なふたり。


管寧割席かんねいかつせき 和嶠專車わきょうせんしゃ

管寧(世説)&和嶠(世説)

 後漢末のひと、管寧は友人の華歆とともに世間から縁遠い生活をしていたが、あるとき華歆が当時の貴人を見物しに行った。それに失望した管寧、ベンチをふたつに割り「おまえと並んで座ろうとは思わん」とつっぱねた。

 西晋の名臣和嶠は荀勖の副官となったのだが、とにかく真面目な和嶠に荀勖の雑な行動があわない。そこで本来荀勖に陪乗すべき車に自分ひとりで乗り込み、出発させてしまった。

 気に食わんやつの側になんぞおれるか。


時苗留犢じびょうりゅうとく 羊續懸魚ようしょくけんぎょ

時苗(魏略)&羊續(後漢)

 後漢末の地方官、時苗。清廉潔白なひとで、その統治によって任地は大いに潤った。赴任の際一頭の牛に車を引かせてやってきたのだが、その牛が任地で子を産む。任期を終えて時苗が去ろうとしたとき、その子牛を任地に置いていく。あくまで任地で生まれた牛だから、とのことである。

 同じく後漢に仕えた地方官、羊続。彼もやはり清廉潔白なたちだった。基本的には贈り物なども受け取らないのだが、あるとき「この魚くらいなら……」と持ち寄ったものがあった。珍しくそれを受け取ったと思ったら、魚を目立つところに干しておき、以降「この魚がまだ残っているから」と贈与を断る口実にしたそうである。

 清廉潔白な地方長官、いややり過ぎでない?


樊噲排闥はんかいはいたつ 辛毘引裾しんびいんきょ

樊噲(前漢)&辛毘(三國志)

 劉邦りゅうほうが死にかけたとき、死の床には誰も入れるなと語っていた。が、樊噲はんかい、その禁令をぶち破って死にかけの劉邦のもとに押しかける。こういった果断さが鴻門こうもんの会において項羽こううを前に一歩も引かない大立ち回りで劉邦を助ける原動力になったのだ、とする。

 曹丕そうひが無茶な政令を施行しようとしたとき、辛毘しんぴをはじめとした群臣が「なにオメー独断で進めようとしてんだおい!」と総ツッコミ。怒った曹丕が引きこもろうとしたところ辛毘がその袖を引っ張って連れ戻そうとした。それは叶わなかったのだが、しばらくして戻ってきた曹丕が「なんでそうお前らは俺の発案却下するんだ」と聞くと、「そりゃオメーの政策がクソだからだよ」とぶった切られたのだそうな。

 忠義のために主君の言葉もぶった切る剛直の士ふたり。


孫楚漱石そんそしゅうせき 郝隆曬書かくりゅうさいしょ

孫楚(世説)&郝隆(世説)

 西晋の名士、孫楚。彼は「石に枕し、清流に口注ぐ、慎ましやかな暮らしを送りた」と言おうとしたところ逆に言ってしまったが、「わざとだよ、石で口を注ぐのだ」と強弁した。

 東晋の知恵者、郝隆は仕事もせずごろりと昼寝。いったいなにをしているのだと人に訊ねられれば、「俺の頭の中にある書を虫干ししているのさ」と強弁した。

 強弁がヤバいふたり。


枚臯詣闕ばいこうけいけつ 充國自贊じゅうこくじさん

枚臯(前漢)&趙充国(前漢)

 枚臯ばいこうの父、枚乗ばいじょう前漢ぜんかん景帝けいてい期に活躍した文人だったが、公的な記録にはその息子で文才に長けている者がいなかった。しかしあるとき長安城ちょうあんじょう城門にひょっこりと現れた枚臯が「ワイ枚乗の息子やで!」と言い出す。枚乗が旅行先でこさえた子だというのだ。実際枚乗にもひけを取らないレベルの文人だったので武帝ぶていは彼を側近に採用した。

 趙充国ちょうじゅうこくは前漢宣帝せんていの時代に活躍した老将。西方をきょう族が侵してきたとき、誰が適任かと問われたときに「まぁ、わし以上にやれるものなどおりますまいな」と豪語、本当に大勝して帰ってきた。

 自らの才覚への自負、それを言い切る度胸、そして自負通りの実力を示したふたり。


王衍風鑑おうえんふうかん 許劭月旦きょしょうげつたん

王衍(世説)&許劭(後漢)

 西晋を代表する名士のひとりである、王衍。まだ世が平和であったとき、石勒せきろくが洛陽にやってきていた。王衍は石勒を見て、「素性はわからないが、あやつのような者がのちに天下に災いをもたらすのだ」と断じ、殺そうとするも失敗。のちに無事殺された。

 後漢末の許劭は月旦、すなわち人物評価で名を知られていた。その月旦が曹操そうそうを見たときはじめ評価にも値しないとシカトを決め込んだが、直後に脅され、例の「治世の能臣、乱世の姦雄」評を語った。

 早い段階で姦雄を見抜いたふたり。


賀循儒宗がじゅんじゅそう 孫綽才冠そんしゃくさいかん

賀循(晋)&孫綽(世説)

 東晋はじめの人、賀循。彼はその学識、その節義高き振る舞いより朝廷の人々より大いに頼り、敬われていた。

 東晋中期の文人、孫綽。彼はもろもろオモシロ行動の目立つ人であったが、その文才が当時において抜きん出ていたため、重んじられていた。

 突き抜けたふたり。性質は真逆。


太叔辨洽たいしゅくべんこう 摯仲辭翰しちゅうじかん

大叔広(晋)&摯虞(晋)

 八王の乱のさなかに殺された文人、太叔廣と摯虞。しぐという人がいた。太叔廣は論談に優れ、摯虞は文筆に優れる。太叔廣が論談の座で摯虞と議論すれば摯虞は絶対に勝てなかったし、さりとて帰宅してから摯虞が筆にて先ごろの論談についての批評を加えると、今度は太叔廣が答えに窮する、という感じだった。

 文人と弁人のバトル。


山濤識量さんどうしきりょう 毛玠公方もうかいこうほう

山濤(晋)&毛玠(三國志)

 竹林七賢なのに三公にまで上りつめている、山濤。その見識は凄まじく、老子を読んでもいないのにあっさり老子の境地にたどり着くし、孫子も読まないのに軍略のキモを一瞬にして見抜くのだった。

 時代が下り、りょうの人が、そんな山濤と並べ讃えるに値するのが毛玠である、と語っている。曹操のもとで働き、その人材登用ぶりは完全に才覚にのみ基づき、コネを差し挟む余地が一切なかった、とのことである。

 凄まじい見識を示した高官二人。


袁盎却座えんおうきゃくざ 衛瓘撫牀えいかんぶしょう

袁盎(前漢)&衛瓘(世説)

 かん文帝ぶんていに仕えた袁盎えんおうは、文帝が側妾のしん夫人と同じ位置の席について宴に興じているのを見て、慎夫人の席を一段低いところに引き下ろす。文帝と夫人が怒ると、「皇后陛下であればともかく、慎氏は側妾のお一人でございます。その線引きはしっかりとなさいませ」と諫めた。ちなみに諫めすぎて煙たがられた。

 西晋せいしん武帝ぶていに仕えた衛瓘は、後継者の司馬衷しばちゅう(のちの恵帝けいてい)が暗愚であることを憂慮していた。そこで皇帝しか座れない席にすがりつき、「ああ、この座が惜しゅうございます」と口にした。なお衛瓘は武帝の時代には咎められなかったが、恵帝の時代、皇后賈南風かなんふうの策略により殺されている。

 皇帝のために設けられる席にまつわる諫言を為した二人。


于公高門うこうこうもん 曹參趣裝そうさんしゅそう

于定国(前漢)&曹參(前漢)

 前漢に仕えた于公うこうが能吏であったため、その治績を讃える祠が建てられる。が、間もなく祠の門が崩れてしまった。それを知った于公は門を高大に作り替えるように指示した。子孫に宰相クラスのものが出るだろうから、と言うのだ。実際に息子の于定国うていこくは、宣帝せんていの時代に宰相に至った。

 曹参そうしん劉邦りゅうほうの決起以来の腹心。蕭何しょうかとはいいコンビであった。項羽こうう討伐以後、せいの宰相としての辣腕を振るっていたが、ある日蕭何死亡の報が飛び込んでくる。それを聞いた曹参は礼服に着替え、長安に出る準備を整えさせた。漢の宰相としての招聘があるから、と言うのである。果たして曹参は蕭何の後継として招集を受け、蕭何亡きあとの漢を支えた。

 大官としての寵遇を予期した二人。


庶女振風しょじょしんふう 鄒衍降霜すうえんこうそう

庶女(淮南子)&鄒衍(戦国燕)

『淮南子』に載るエピソード。斉の家に母と一男一女がいた。男のもとに嫁が来るが、子が生まれないうちに男は死亡。母は嫁に実家に戻るよう勧めたが、そのまま恭しく母に仕えた。一方娘は母の財産目当てで母を殺す。更にその罪を嫁に着せた。獄につながれた嫁はこのことを天に報告。すると天が怒り、風を呼び、その雷にて堤防を破壊させたという。

 鄒衍は斉に仕えた後、えんに仕えた。しかし讒言を受け、獄につながれる。天を仰ぎ嘆く鄒衍。その思いを聞き遂げた天は、真夏にもかかわらず燕の地に霜害をもたらしたという。

 無実の罪に怒る天。


范冉生塵はんたんせいじん 晏嬰脫粟あんえいだつぞく

范冉(後漢)&晏嬰(戦国斉)

 范冉は後漢の人。才人であったが俗世とは一線を画した恬淡とした生活を送っていた。そのため米炊き用の釜に塵がたまったりさえすることもあったという。

 斉の景公に仕えた名宰相、晏嬰は脫粟、要は玄米をいただくぐらいで、食を贅沢にしようとはしなかった。

 食に対して恬淡なふたり。


詰汾興魏きつふんこうぎ 鼈靈王蜀べつれいおうしょく

拓跋詰汾(北魏)&鼈靈(蜀王本紀)

 北魏道武帝の遙かなる先祖、拓跋詰汾。彼が神霊よりの奇跡を得ることで生まれた拓跋力微が、その後の拓跋部の繁栄を興すこととなる。

 周の時代、蜀の地に王が立っていた。王たちの先祖は鼈靈といい、荊州の人だったが、死亡して楚の死体が何故か長江を遡上、蜀の地で復活。その地で王となり、以降代々統治した。

 地方の王の出身譚は異様。


不疑誣金ふぎふきん 卞和泣玉べんわきゅうぎょく

直不疑(前漢)&和氏(韓非子)

 前漢文帝の頃、ある役人が里帰りするときに、うっかり別の人間の金子を持ち帰ってしまった。持って行かれた人間は直不疑を疑う。直不疑は抗弁もせず金子を入手し、それで彼にあがなった。なお里帰りした役人が「うっかり持って帰っちゃったわー」と帰還したため、あがなわれた人は多いに恥じ入ったのだとか。

 楚の和氏が山中で見事な璧玉を手に入れた。王に献上してみれば「ただの石ですよ」と鑑定され、偽装罪で足の腱を切られた。王の代が変わったのでもう一回献上すればやはり同じ結果となった。更に王の代が変わるが、このときはただ璧玉を抱いて泣くばかり。その理由を聞けば「刑を受けたことが悔しいのではない、確かな宝を献上したいという真心を詐称と言われたのが悔しいのだ」と語る。それを聞いてついに王の元に収められ、磨いてみれば、確かに極上の璧玉であったという。そう、これが「和氏の璧」だったのです。

 財宝周りで、確かな信念を抱いていたふたり。ともに「自分のための財宝ではない」ことも共通していますね。


檀卿沐猴だんきょうぼくこう 謝尚鴝鵒しゃしょうくよく

檀長卿だんちょうけい(前漢)&謝尚(世説)

 前漢宣帝せんていの時代、蓋寛饒がいかんぎょうがいやいやながら参列した宴で、檀長卿だんちょうけいが犬と猿が戦う真似をした踊りを披露し、みんなは大喝采。いっぽう蓋寛饒が下品なものを見させられたとぶち切れた。

 東晋とうしんの時代、陳郡ちんぐん謝氏しゃし躍進のきっかけを作った人士、謝尚しゃしょう。時の大宰相王導おうとうの紹介で参列した宴にて、彼もまた見事な鳥たちの姿を模した踊りを披露した。

 見事な動物の舞を披露したふたり。ついでに言えば片や蓋寛饒がぶち切れ、片や王導を中心に喝采するという、「時代が悪く傾いている」ニュアンスも混じっています。


泰初日月たいしょじつげつ 季野陽秋きやようしゅう

夏侯玄(三國志)&褚裒(世説)

 三国魏の名士夏侯玄かこうげん、字泰初たいしょはその交友スキルがずば抜けていた。夏侯玄と話す人々は、まるで夏侯玄の懐に太陽や月が入っているのではないかと錯覚したという。ただしその本心はわりとえげつない批判者であった。

 西晋の滅亡を避け、東晋に亡命した名士褚裒ちょぼう、字季野きや。口にはめったに批判の言葉を表わさないが、その内心ではかなりえげつない批判の言葉が渦巻いていたという。人物批判を春秋と言い、当時の皇帝の祖母鄭阿春ていあしゅんの名の字を避けて陽秋と読んだのだ。

 交友広き名士の、表と裏。


荀陳德星じゅんちんとくせい 李郭仙舟りかくせんしゅう

陳寔(異苑)&郭太(後漢)

 後漢桓帝かんていの時代、潁川えいせん陳寔ちんしょく親子、荀淑じゅんしゅく親子が一堂に会した。親子揃って当時一流の名士であり、このとき都では「潁川に徳の星が集結しました」との報告が上がった。

 同じく桓帝の時代、当時の名士である李膺は多くの人に慕われていたが、里帰りするときに船に乗せたのはただひとり、同じく名士の郭泰のみだった。このとき岸辺から見送った者たちは、まるで仙人の乗る船のようだ、と語ったという。

 抜群の名士たちの交わり。


王忳繡被おうとんしゅうひ 張氏銅鉤ちょうしどうぐ

王忳(後漢)&扶風張氏(三舗決録)

 王忳は旅路で病人を看病したが、その病人は看護の甲斐なく死亡。死亡するときに十斤もの金子を礼に、と王忳に託す。王忳は一斤のみ葬儀費用に充て、残り九斤は病人の墓にともに埋めておいた。ある日王忳の元に迷い馬が駆け込んで来、また繡被=刺繍の入った布団が風に乗って飛んでくる。後に馬が元の持ち主のもとに戻ると、飛ばされた布団もその人のものであり、更に聞けば王忳が旅先で埋葬した病人も、彼の息子であったという。これらのことから王忳の名は大いに広まり、立身の途に就いた。

 扶風張氏の先祖のもとに、鳩が飛んできた。その鳩は赤銅の鉤をもっており、これを身に帯びると張氏はたちまち立身。しかし手放すとたちまち没落した。

 財宝に絡む霊験のお話、とすればいいんでしょうかね。微妙にこの二つがワンセットになってる理由が見出しづらいなぁ。


丁公遽戮ていこうきょりく 雍齒先侯ようしせんこう

丁公(前漢)&雍齒(前漢)

 丁公は項羽こううに仕えていた将。劉邦りゅうほうとも旧知の仲であった。ある戦争において劉邦を追い詰めたのだが、旧知の仲であることを理由に見逃した。のちに劉邦に帰順。命を助けた恩をもとに褒美をもらえると出向いたところ「お前のせいで項羽は敗北した。お前のような不忠者を飼えば何が起こるかわからぬ」と殺された。

 雍齒は劉邦に対し従反常ならぬ振る舞いをしており、殺したいほど憎まれていた。しかし論功行賞において、誰よりも先に諸侯につけられた。これによって臣下らは劉邦が公正な論功行賞をなすのだと安心した。

 劉邦の人事の妙が光りすぎる。


陳雷膠漆ちんらいこうしつ 范張雞黍はんちょうけいしょ

陳重・雷義(後漢)&范式・張劭(後漢)

 後漢の士人フレンズ、陳重ちんちょう雷義らいぎ。どちらかが栄達すればもう片方に譲るし、どちらかが罪を得ればもう片方も責任を負って自任する。地元の人たちは「塗り固めたニカワはめっちゃ硬いけど、あの二人の絆には勝てないよね」と語り合った。

 同じく後漢の范式はんしょく張劭ちょうしょうは、そのすまいが遠く離れているとは言ってもその心を繋ぎ合う仲だった。春に別れ、秋の再会を誓うと、その期日近くなったタイミングで張劭が鶏を潰し、キビをふかし、その到来を確信して待った。

 固い絆に結ばれた後漢フレンズ。

 

周侯山嶷しゅうこうさんぎ 會稽霞舉かいけいかきょ

周顗(世説)&司馬昱(世説)

 東晋初期の名臣、周顗。自他共に厳しいひとであり、そのありようはまるで切り立った岩山のようである、と評されていた。

 東晋簡文帝、司馬昱。皇帝になる前に会稽王であった彼の存在は実にたおやかなものであり、ピリピリした宮中の緊張感も、彼が現れることで朝靄が立ちこめるかのごとく和らいだという。

 東晋名臣たち、そのありよう。


季布一諾きふいちだく 阮瞻三語げんせんさんご

季布(前漢)&阮瞻(世説)

 季布は項羽配下の将として劉邦を苦しめたため賞金首となったが、季布を慕う民よりの必死の懇願により許され、諸侯に任じられた。そこでの統治においてもまた「季布さまよりお認め頂くことは百金を得ることよりも貴い」と讃えられた。

 竹林七賢のひとり阮咸の息子、阮瞻は、竹林七賢でありつつ位人臣を極めた王戎に引見したとき、王戎より「孔子の言葉と老荘の言葉に違いはあるのだろうか」と聞かれた。そこに対して「将無同(まぁ、同じだと言えなくもないでしょうか)」のたった三語で答えて王戎を唸らせたという。

 控えめな言葉で、対手を感服させる人たち。


郭文游山かくぶんゆうさん 袁宏泊渚えんこうはくしょ

郭文(晋)&袁宏(世説)

 東晋初期の隠者、郭文。かれはかの王導よりの招聘をも断り、山野に遊ぶことを楽しみとした。

 東晋中期の文人、袁宏。かれは波止場でひとり歌っていたところを謝尚に見初められ、登用された。

 東晋を生きた、雅やかな生き方のふたり。


黃琬對日おうえんたいじつ 秦宓論天しんひつろんてん

黃琬(後漢)&秦宓(三國志)

 後漢の名士黄琬は、七歳の時に皆既日食を目の当たりとし、徐々に日蝕が収まるさまを見て「あれ、太陽の欠け方、月にそっくりだね?」と喝破し、周囲のものを驚かせた。

 三国蜀に仕えた秦宓。呉に使いとして向かったとき、呉の人間から「天に頭があるか?」「耳は?」「足は?」と聞かれたので、全部詩経を引用して答えきった。

 天文に関するトンデモネー見識学識を示した二人。


孟軻養素もうかようそ 揚雄草玄ようゆうそうげん

孟軻(史記)&揚雄(前漢)

 孟子は士官を志したけどことごとく失敗した。そんな孟子が著書に「我善養吾浩然之気」、朴ではつらつとしたエネルギーをってるよ、と語った。

 一方の揚雄は前漢末の人。当時の貴顕にもおもねることなく、儒教華やかなりしころ道家の教えを貫き、太経を起した。

 時流にうかつに乗らず、己が学問を貫いたふたりだ。


向秀聞笛しょうしゅうぶんてき 伯牙絕弦はくがぜつげん

向秀(晋)&伯牙(列子)

 向秀は竹林七賢ちくりんしちけん嵆康けいこうと良くつるんでいたのだが、その嵆康が処刑された。後日ふと街角で寂しい笛の音を聞き、無二の友人のことを思い出し涙したそうである。

 琴の名人伯牙には鐘子期しょうしきという友人がいた。しかしその鐘子期が死んでしまうと、伯牙は「これでおれの琴を聴かせるべき相手はいなくなった」と琴を破壊した。

 友人の死にまつわる、音楽の話。


郭槐自屈かくかいじくつ 南郡猶憐なんぐんゆうれん

郭槐(晋)&司馬興男(世説)

 何充には妻がふたりいた。李婉と郭隗である。皇帝よりの特別のお達しにてふたりの正妻を持つことが許された何充であったが、あとから妻となった郭隗にはそれが気に食わない。そこで李婉に難癖をつけに行こうとしたのだが、ひと目会うなりその威厳の前に膝を屈してしまった。

 桓温の妻は司馬興男、東晋明帝の娘である。あるとき桓温が敵国を落としたときに、その国の王の妹を妾とした。それに怒った司馬興男は彼女を殺しに長刀を持って出向いたのだが、既に死すら決意していた彼女の思いに打たれ、以降寵愛するようになった。

 名臣にいた、ふたりの妻。


魯恭馴雉ろきょうじゅんち 宋均去獸そうきんきょしゅう

魯恭(後漢)&宋均(後漢)

 後漢章帝しょうていの時代に地方長官になった魯恭。その任地における統治ぶりは神がかっており、「なぜか蝗害も及ばず、獣や雉まで馴致され、幼子ですら徳を知る」とまで視察の人間に言い切らせた。

 光武帝こうぶていの時代、南方の地方長官となった宋均。彼の統治もやはり神がかっており、当時虎の害に悩まされていたその地から、官吏の教化によって虎を追い出した。へ、へー……?

 地方統治には徳化が肝心だね!


廣客蛇影こうきゃくじゃえい 殷師牛鬬いんしぎゅうとう

楽広(晋)&殷仲堪(晋)

 八王の乱に振り回された論客。楽広。かれのもとに来た客が酒を飲むと、間もなく具合を悪くした。杯の中に蛇が入っていたにもかかわらず飲み干してしまったことで気分が悪くなった、と言うのである。調べてみるとそれは部屋にあった蛇の絵が杯の中に映り込んでいただけだった。楽広がそれを客に告げると、彼はけろりと回復した。

 東晋末の動乱に振り回された論客、殷仲堪。彼の父殷師は奇病にかかっていた。床下でアリのうごめく音が、間近で闘牛が行われているほどの轟音に聞こえたという。

 奇妙な病気の話。


元禮模楷げんれいもかい 季彥領袖きげんりょうしゅう

李膺(後漢)&裴秀(晋)

 後漢後期、党錮とうこの禁によって犠牲になった士人の筆頭格、李膺。あざなが元礼。彼は茂才として中央に推挙されると、周辺の人間から「彼こそが我々の模楷、すなわち手本となるひとだ」と評されていた。

 世説新語せせつしんごでは何故かこの言葉のみで登場するという微妙な扱いを受けている裴秀はいしゅう、あざな季彦きげんしん曹魏そうぎに成り代わらんかといったタイミングにあり、裴秀は後進のトップランナーたるに相応しい、と評価されていた。

 次代の牽引者と目された二人。


魯褒錢神ろほうせんしん 崔烈銅臭さいれつどうしゅう

魯褒(晋)&崔烈(三国)

 晋の魯褒は「銭神論」を著し、当時の銭至上論っぽい風潮を皮肉った。のはいいのだが、後世になると「ここに書かれている通りだ」とマジレスで受け止められるようになってしまったという。

 後漢末、霊帝が官位を競りに掛けて無茶な朝廷財政改善策に乗り出した。このとき崔烈が思いっきり銭を積み、人臣の極みたる三公の位を買い上げる。世間体を気にする崔烈が自らの評判を問い合わせたところ「銭くさくてたまらん」という評価を得た。

 銭はヤバい。魔物。


梁竦廟食りょうしょうびょうしょく 趙溫雄飛ちょうおんゆうひ

梁竦(後漢)&趙溫(後漢)

 後漢明帝めいていの時代の文人、梁竦。めちゃくちゃすごい文人だったが、朝廷での活躍はできなかった。皇帝の宗廟に配食されるような活躍もできないなら引きこもった方がマシだと、本当にそのまま引きこもった。もっとものちに立身して梁冀りょうきにはめられ死ぬのだが。

 後漢末期、長安統治の補佐官に任じられた張温は「大丈夫まさに雄飛すべし、いづくんぞよく雌伏せん!」と言いきって官を捨て立ち去った。のだが,のちに長安が都となると、そこで三公に任じられた。

 すげえやつになるぜえ! なったぜ!!


枚乘蒲輪まいじょうぶりん 鄭均白衣ていきんはくい

枚乘(前漢)&鄭均(後漢)

 呉楚七国ごそしちこくの乱直前の呉にて、枚乘ばいじょうは懸命に呉王の決起を止めようとするも叶わずりょうに脱出。乱鎮圧に尽力した。その功績をたたえられ中央に召し出されるも栄達を嫌い梁に帰還。賦をものする日々を送る。やがてその高名を慕った武帝ぶていより招聘、蒲輪という揺れの小さな車にて召喚されたのだが、都に向かう途中で死亡した。

 後漢の章帝しょうていの時代、鄭均ていきんの兄がワイロに汚い役人生活を送っていた。それを諫めるため鄭均は自ら使用人に身をやつして金を稼ぎ、一年後に兄の元へ持っていく。そして金は稼げば確保できるがワイロによって名を損ねると二度とは戻らない、とさとし、これに感心した兄はついにワイロの受け取りをやめる。以後鄭均と兄は清廉な勤務を貫き通し、章帝より引退後も現役時と同じだけの俸給を与えると特例措置を受けた。

 その忠直な働きを認められたふたり。


陵母伏劒りょうぼふくけん 軻親斷機かしんだんき

王陵母(前漢)&孟子母(古列女伝)

 劉邦りゅうほうの配下将、王陵おうりょうの母親が項羽こううに囚われた! 人質として交渉しようとする項羽であったが、辱めに遭うくらいならば、と、王陵の母はみずから剣の上に身を投げ、死んだ。

 孟子の本名は孟軻もうか。その母は教育熱心であり、孟子の教育環境改善のために二度の引っ越しをした。それほどの熱の入れようなのに、息子に進捗を聞くと「まぁまぁかな」などとほざく。なのでママ氏、いきなり自らの機織り機をぶち壊し「お前の学が断たれるのは、私の機織り機が壊れるのと同じなのよ!」と絶叫。よくわかんないけど迫力に負けた孟子、それからは学業に打ち込んだそうな。

 息子のために異常なまでの迫力を示すママ氏お二方がノミネートでございます。


齊后破環せいこうはかん 謝女解圍しゃじょかいい

斉襄王妃(戦国策)&謝道韞(晋)

 斉の湣王びんおうが亡命の末殺され、息子の襄王じょうおうは名を偽ってとある家に匿って貰っていた。ら、その家の娘が襄王に惚れてオセッセセ。はい、のちの君王后おうくんこうです。襄王死後、秦から難解な知恵の輪が送られてきた。斉の知謀どんなもんじゃいというわけである。斉の臣下らが解けなくて呻吟していたところ王君后、ハンマーでぶっ壊した。お前は髙洋こうようか。ともあれ彼女の指導があったため、彼女の健在中は秦もうかつには攻められなかったという。

 対するは東晋とうしん末の烈女、謝道韞しゃどううん謝安しゃあんの姪、謝玄しゃげんの姉である。王羲之おうぎしの息子に嫁いだ。ある日夫の弟が議論でへこまされかかっている。なのでおっちら乗り込んで「義弟どの、あなたの包囲網を突破して差し上げましょう」と、あっさり相手を論破してしまった。

 強烈な知恵の輝く烈女二名。


鑿齒尺牘さくししゃくとく 荀勗音律じゅんきょくおんりつ

習鑿齒(晋)&荀勗(晋)

 東晋の文人、習鑿歯は文章の中でも、特に書簡の往復による議論に長けていた。

 西晋の代表的佞臣、荀勗は、しかしその音楽の才能がずば抜けており、西晋の音楽の調律を一手に引き受けた。

 飛び抜けた才能を示したふたり。


胡威推縑こいすいけん 陸績懷橘りくせきかいきつ

胡威(世説)&陸績(三國志)

 西晋の胡威は父より絹の布を受け取ると、それを配下にすぐ渡してしまった。

 後漢の陸績は袁術に橘の花が飾られた間で応接を受けたところ、その橘の花のうち三輪を懐にしまい、母に渡そうとした。

 送られたものを自分で持とうとせず、人にすぐ与えた二人。


羅含吞鳥らがんどんちょう 江淹夢筆こうえんむひつ

羅含(晋)&江淹(南史)

 東晋の文人、彼は若い頃に鳥が口の中に飛び込んでくる夢を見、以降文章力が飛躍した。

 劉宋~梁の時代の文人、江淹。彼の晩年、夢の中に三人の詩人が相次いで現れ「預けていたものを返してもらいに来た」と何かを持ち去って言った。一つの夢を見るごと、江淹の文才は見る見る間に枯れていったという。

 夢にて文才を与えられ、奪われ。


李廞清貞りきんせいてい 劉驎高率りゅうりんこうそつ

李廞(世説)&劉驎之(世説)

 東晋初期の隠者、李廞。彼は士官の話が出てもその一切を断り、清貞なるを貫き通した。

 東晋末期の隠者、劉驎之。彼もまた士官のたぐいの話に一切耳を貸さず、桓沖が直々にスカウトにきてもすげなく断り切った。

 士官になぞ、誰が飛びつくか。


蔣詡三徑しょうくさんけい 許由一瓢きょゆういちひょう

蔣詡(前漢)&許由(逸士伝)

 蔣詡は王莽おうもうの権勢甚だしい頃高官の地位より退き、田舎で庭に三本の小道を引いて、それぞれの先に松、菊、竹を植え、それを愛でる生活で満ち足りた。一説では家から門、井戸、トイレへと通じる道だったともされる。

 許由は五帝・ぎょうよりの禅譲を求められたが蹴り飛ばした隠者である。箕山きざんに隠遁し、水を飲むにも川から手ですくって飲むような状態であった。それを見かねた人から杯を譲って貰ったのだが、結局煩わしくなって捨てた。

 シンプルイズベストな生活を貫くふたりの隠者。


楊僕移關ようぼくいかん 杜預建橋とよけんきょう

楊僕(前漢)&杜預(晋)

 前漢の楊僕は将軍として大きな功績を挙げていた。このとき函谷関かんこくかんがいまよりも西にあったため楊僕は関外の人間扱いとなっていた。これを嫌った楊僕、武帝ぶてい陛下にお願いして函谷関を東に移し、無事関中の人間となることができましたとさ。なお最終的に破滅している。

 西晋の杜預とよ孟津もうしんにあった黄河こうがにかけている橋が危ないからと富平津ふへいしんに移すべく建議。周囲の反対もあったが押し通した。結果できた橋は見事なもので、その仕事を武帝より大いに讃えられている。

 巨大建築物の造成に取りかかったふたり、の光と闇。


壽王議鼎じゅおうぎてい 杜林駮堯とりんはくぎょう

吾丘寿王(前漢)&杜林(後漢)

 前漢武帝の時代、汾水ふんすいの南で美しき鼎が発掘された! 宮中の皆は「素晴らしき周の宝が発見された!」と大喜びしたが、吾丘寿王ごきゅうじゅおうは「だまらっしゃい! この鼎が出現したのは漢の徳が極限に至ったことを天が嘉したもの、つまり周の宝じゃなくて漢の宝じゃ!」と言ったのだとか。ブテーヘーカはその発言を讃えたという。

 後漢が立ち上がったころ、偉大なる先祖を祀ることについて議論があった。周の系譜は后稷こうしょくに始まる、ならば漢帝はぎょうの子孫なので堯を祀るべきでは? と言うものだ。そこに進み出る杜林さんは言う。いや別に堯って漢の立ち上げに絡んでないっしょ? と。それを聞いて、みんな「それもそうだ……」と思い直したのだとか。

 周周うるせー、漢を讃えろ漢をと周囲を喝破したふたり。


西施捧心せいしほうしん 孫壽折腰そんじゅせつよう

西施(荘子)&孫壽(後漢)

 絶世の美女と呼ばれる西施、彼女は憂いのあまりに顔をしかめていた。それを見た醜女がその美しさに憧れ、特に心配事もないのに顔をしかめた。まあお察しである。なお西施はその後越えつ勾践こうせんの策略として夫差ふさのもとに送り込まれ、夫差を骨抜きとする一役を担った。

 折腰とはくねりと曲げられた腰、である。末期の後漢を専断した梁冀りょうきの妻、孫寿そんじゅ。一言で言えばどちゃくそエロかった。このため梁冀を誤らせ、後漢を傾けさせるに至った、と言うわけだ。

 傾国の美女は、他者をも誤らせる。当人にとってはいいとばっちりのような気もしないではない。


靈輒扶輪れいちょうふりん 魏顆結草ぎかけつそう

晋霊公(左伝)&魏顆(左伝)

 靈輒は晋の霊公の家臣である趙盾ちょうじゅんに命を救われたことがあった。やがて靈輒は霊公の衛兵となったのだが、その霊公が趙盾の命を狙う。馬車に乗って逃げようとする趙盾、しかし御者が殺されてしまう。すると靈輒は任務を擲ち、趙盾脱出のサポートをした。

 一方の魏顆ぎかもやはり春秋晋のひと。文公の配下である魏犨ぎしゅうに仕えていた。魏犨には側妾がいたが、二人の間に子がいない。魏犨は病を得ると側妾を魏顆にめあわせようとするのだが、病がひどくなると、今度は殉死させろ、と言い出す。結局魏犨の死後娶ることにした。「危篤の人間はろくでもないことを言うものだ」と言うことで。後日杜回とかいという男の反乱を食い止めようとしたとき、魏顆は草を結んでおき、杜回を転ばせようとした。策は的中、杜回は捕まり、処刑される。その後、魏顆の夢に杜回があらわれ、言う。「わしはそなたの妻の父だ。娘を救ってくれたので、このような形で報わせて貰った」と。

 過去の恩義を、思いもかけない形で返した二人のお話。


逸少傾寫いつしょうけいしゃ 平子絕倒へいしぜつとう

王羲之(世説)&衛玠(世説)

 書聖として知られる、東晋の王羲之。彼は無類の鳥好きで、隠者の飼っている鳥をもらい受けたいと申し出たところ老子道徳経の写しが欲しいと言われ、喜んで全文を書き写して渡した。

 西晋から東晋に亡命した貴族、衛玠えいかい彼が老荘について論じると、その精妙さに誰もがみな嘆息し、倒れ伏すのだった。

 老荘にまつわる絶技。ていうか王羲之先生……。


澹臺毀璧たんたいきへき 子罕辭寶しかんじほう

澹臺(博物誌)&子罕(左伝)

 澹臺は値千金ともされる璧玉を所有していた。その璧玉を持って川を渡ろうとすると、その川の神が璧玉を欲し、大風で川を転覆させようとしたりサメをけしかけたりして奪い取ろうとする。そのいずれをも乗り越え、渡河を終えると、澹臺は璧玉を川に投じた。神は返却してきた。投げた。返ってきた。投げた。返ってきた。しまいには澹臺、璧玉を破壊した。

 宋の国の城主である子罕のもとに璧玉を持ってきた者がいた。しかし子罕はことわる。「私は倹約を宝とする。あなたは璧玉を宝とするのだ。受け取れば、どちらもが宝を喪うこととなるのだ」と。

 宝に執着しないふたり、と言うか前者は川の神お前いい加減にしろよ案件では……?


東平爲善とうへいいぜん 司馬稱好しばしょうこう

劉蒼(後漢)&司馬徽(後漢)

 後漢明帝の弟、東平王劉蒼は兄より格段の寵遇を受けていた。封爵地での生活ののち明帝の元に戻ると、明帝より「何が一番楽しかったか?」と聞かれる。すると劉蒼は「善きことをしているのがもっとも楽しかったです」と応えた。

 後漢末期の人物鑑定人、司馬徽しばき。彼は人の欠点をあげつらわず、そしてありとあらゆる現象に対して不平も持たず、すべてに対して「好し」とばかり応えたという。

 善きことをし、好いと言う。繋がっていると言えば繋がっているような、いないような?


公超霧市こうちょうむし 魯般雲梯ろはんうんてい

張楷(後漢)&公輸(墨子)

 張楷はめっちゃすごい学者で、その学識を慕って門弟があふれたのだが、どうにかそれから逃れようとした。なお五里を霧の中に沈めるという謎の方術を習得していたという。

 公諭は優れた大工で、多くの攻城兵器を手がけた。中でもはしご車は見事なものであったという。もっともはしご車による攻撃は、墨子によってことごとく退けられるのだが。

 当時の水準からして超常的な技術を開発していたふたり、となるのだろうか。


田單火牛でんたんかぎゅう 江逌爇雞こうゆうねつけい

田單(史記)&江逌(晋)

  せいの将軍として立った田単でんたんは燕軍に城を包囲されたとき、千頭の牛を集め、角には刀を縛り付け、尾にはよく油のしみこんだ藁を巻き付けた。そして牛たちの尾に火をつけてえん軍に飛び込んでませ、燕軍を壊滅させた。

 江逌もやはり動物絡みの戦術だ。五胡十六国ごこじゅうろっこく時代、東晋とうしん殷浩いんこうきょう族の将軍姚襄ようじょうと対峙。単純な用兵力ではまったく勝ち目のないこの戦いにおいて、殷浩の部下であった江逌が数百羽の鶏を縄で繋ぎ、火をつけて姚襄軍に躍りかからせた。そこに強襲を掛け、姚襄軍を退けたのだ。

 ど動物虐待ィー!


蔡裔殞盜さいえいいんどう 張遼止啼ちょうりょうしてい

蔡裔(晋)&張遼(三國志)

 東晋の蔡裔が盗賊の隠れる家に入り、一喝して床を蹴れば、たちまち三人の盗賊がぼとぼとと天井から落ちてきたという。

 三国魏の勇将、張遼。呉に攻め立てたときの武勇のすさまじさのあまり、呉の人々は鳴く子に「張遼が来たぞ!」と言って脅し、その泣き声を止めたという。

 めちゃくちゃな武勇の二人。


陳平多轍ちんへいたてつ 李廣成蹊りこうせいけい

陳平(前漢)&李廣(前漢)

 陳平は劉邦りゅうほうのもとで多くの献策をした大功臣だが、その交友はド派手なものだった。陳平の家の前にはつねに多くの金持ちの人間が訪れるため、轍がたくさん残されていたという。

 武帝ぶていに仕えた将軍李広りこうは篤実な人柄であった。口数は多くないが、スモモの木の下に自然と道ができるように、彼を慕う者はたくさんいたという。

 ハデハデ交流と、質朴交流の対比。


陳遵投轄ちんじゅんとうかつ 山簡倒載さんかんとうさい

陳遵(前漢)&山簡(晋)

 陳遵ちんじゅん王莽おうもうの時代の名士だったが酒癖がすごかった。酔っ払うとやって来ていた客の車の車軸(轄)を井戸の中にぶん投げ、門も封鎖し、急用があったとしても帰れなくしてしまったという。

 竹林七賢ちくりんしちけん山濤さんとうの息子である山簡さんかん荊州けいしゅうに出向したとき、永嘉えいかの乱が勃発。洛陽らくようは史上まれに見る大混乱に陥った。それを知った山簡、荊州の地で酒を浴びるように飲んではぶっ倒れる毎日を送った。

 破滅的な時代における、放埒な酒の飲み方のふたり。


淵客泣珠えんきゃくきゅうしゅ 交甫解佩こうほかいはい

鮫人(述異記)&鄭交甫(列仙伝)

 しん代の文人、左思さしがものした呉都賦ごとふには「海側にいた半人半魚が涙をこぼすと、それが宝玉になった」とする伝説が残っている。

 漢水かんすいに住まう女神、その娘ふたりは見事な宝玉を身に帯びていた。それを欲しいと思った文人の鄭交甫ていこうほは歌を捧げ、彼女らから宝玉を貰ったのだが、手元に収めると、たちまち宝玉も、仙女たちも消えていたという。

 伝説に残る宝玉たちのお話。


龔勝不屈きょうしょうふくつ 孫寶自劾そんほうじがい

龔勝(前漢)&孫寶(前漢)

  前漢末期、王莽おうもうが実権を握る。龔勝は何度も中央に出てくるよう呼びかけられたのだが応じない。ついには皇帝直々の命として召喚を受けたのだが病を称し、拒否。そこから飲食を断ち、二週間後に死亡した。

 前漢成帝せいていの時代、張忠ちょうちゅうという人が学問の業績高い孫宝に、息子の教師となって欲しいと言い出す。周囲の人間もそれがさも良いことであるかのように言いだしたため、孫宝は自らに罰を着せ、辞任する形で辞退した。「高士たるものそんなことやるべきでない」とのことである。お、おう……?

 断固として気に食わぬお仕事したくないでござる。


呂安題鳳りょあんだいほう 子猷訪戴しゆうほうたい

呂安(世説)&王徽之(世説)

 西晋の名士、呂安は嵆康とマブであった。あるとき嵆康の元に訪れてみると家族しかいない。がっかりした呂安は家の門に「鳳」と書いて立ち去った。「凡+鳥」である。

 王羲之の息子、王徽之。奇行で知られる彼はあるとき突然隠者の戴逵のもとを訊ねるのだが、玄関先に到着すると満足して引き返してしまった。

 はるばる友に会いに、しかし。


董宣彊項とうせんきょうこう 翟璜直言てきおうちょくげん

董宣(後漢)&翟璜(戦国魏)

 董宣は後漢ごかん光武帝こうぶていの臣下のひとり。光武帝の姉の召使いが殺人を犯したところ、姉は召使いを匿い、追及を逃れようとした。董宣、構わず摘発の上、殺した。すぐさま光武帝のもとに引っ立てられるたのだが、むしろ柱でをかち割り、盛大に流血しながら「死ぬなら死ぬで構いませんが、善良な人を殺害した罪をきっちり裁かないってんなら、陛下、誰があんたの言葉を正しいと思うんです?」と直言。これには参ったと光武帝も苦笑し、董宣の振る舞いを認めるしかなくなった。

 そして翟璜てきおうも直言の人であった。の文侯が中山を滅ぼしたところ、本来そこは弟に封爵地として与えるべきであったにもかかわらず、自らの子に与えてしまう。これを翟璜に「仁ならざる振る舞いである」と直言を受け、激怒。しかし直後「任座じんざ」が「仁君のもとには直言の士がいる者だ、ならば文侯は仁君と言えよう」と言う。これに文侯も唸り、翟璜の言を受け入れ、褒美を与えた。

 主より不興をも恐れず直言をなし、主君を正しい方向に導こうとしたふたり。


紀昌貫蝨きしょうかんしつ 養由號猨ようゆうごうえん

紀昌(列子)&養由(淮南子)

 紀昌の放つ弓はシラミを狙って射貫いたという。

 王がある猿に向けて矢を射たところ、猿は難なくその矢をキャッチ。ぐぬうとなった楚王、弓の達人である養由基ようゆうきに射かけさせようとした。それでは、と養由基が矢の曲がり具合を調べ始めると、それだけでもう猿は木陰に隠れて号泣したという。

 途轍もない弓術の持ち主ふたり。


馮衍歸里ふうえんきり 張昭塞門ちょうしょうさいもん

馮衍(後漢)&張昭(三國志)

 漢の更始帝こうしていに仕えた馮衍は光武帝こうぶていに最後まで抵抗するも、更始帝死後光武帝に仕えた。とは言え光武帝からはまるで重んじられず、故郷に帰還した。

 三国呉の重鎮、張昭。孫権そんけんの重要な相談役だったが、北方の自立勢力からの称藩を孫権が受け入れてしまったため、それに猛反対していた張昭、怒って自宅に引きこもった。ちなみに孫権はその門を焼くことで張昭を自宅から引きずり出した。

 意見が通らなかったことを理由に引きこもった二人。


蘇韶鬼靈そしょうきれい 盧充幽婚ろじゅうゆうこん

蘇韶(三十国春秋)&盧充(孔子志怪)

 蘇韶は死後いとこの蘇節そせつの前に霊として姿を現し「死者も君たちと同じくこの地で暮らしているよ、実体があるかないかの違いでしかないんだ」と気さくそうに語り、姿を消したという。

 盧充はかん代の人。狩りの途中に迷い込んだ官舎でひとりの女性にめあわされた。オセッセセを楽しんで、三日後に官舎を去ることに。「彼女は妊娠した。息子だったら君の元に返そう」と別れ際に言われ、果たして三年後、母の形見とともに盧充のもとに息子がやって来る。後日母の姉妹という人に話を聞けば、盧充にめあわされたタイミングではとうに死んでいたはずなのだが、とのことだった。

 死者の霊と現世の人との交わり。やべえピックアップしたはいいけどふつうに二人ともあとの時代の人だった。まぁいいや、あんま趨勢に関わらないし。


震畏四知しんいしち 秉去三惑へいきょさんわく

楊震(後漢)&楊秉(後漢)

 後漢中期の名士、楊震ようしん。彼はこっそりわいろを持ち寄ってきたものに「天と地とあなたと私がわいろを知っている。受け取るわけにはいかない」とわいろを突っぱねた。

 後漢後期の名士、楊秉ようへい。清廉潔白を旨とし、高官に至った。彼は三つの誘惑を常に自らにいましめていたという。酒、性欲、財貨である。

 自らを厳しくいましめる名士の、いくつかの規範。


柳下直道りゅうかちょくどう 叔敖陰德しゅくごういんとく

柳下恵(論語)&孫叔敖(賈誼新書)

 柳下恵りゅうかけい論語ろんご孔子こうしに讃えられてる直言の士。直言がたたり三度の罷免を受けたが、なお生き様を曲げなかった。そこを曲げたら自分ではない、としたのだ。

 孫叔敖は幼い頃に双頭の蛇を目撃した。双頭の蛇を目撃した者は死ぬと言われている。そのため孫叔敖、蛇を殺して埋めた。「他の者にこの蛇をみせるわけにはいかない」と思った故である。そして帰宅後母に泣きつく。自分は死ぬのだ、と。しかし母は言う。「陰徳ある者に天はきっと報いてくださいますよ」と。

 んむー。これも両者に繋がりがあるような、ないような……?


張湯巧詆ちょうとうこうてい 杜周深刻としゅうしんこく

張湯(前漢)&杜周(前漢)

 ともに前漢武帝に仕えた酷吏。張湯はその文辞が異常に巧みであり、苛烈な裁きの数々は不公平そのものであったにせよ、結局は誰も論破できないまま多くの犠牲者を積み上げた。とは言え、やがて失着を起こし自殺した。

 杜周は、そんな張湯の弟子筋。武帝が陥れたいと思ったものは法を曲げてでも陥れ、掬い上げたいと思ったものは法を曲げてでも掬い上げた。桑弘羊と言った重臣、衛皇后の兄弟と言った貴人ですら構わずギッチギチに攻め挙げたため、武帝から仕事熱心だと褒められている。

 酷吏恐い酷吏恐い。


三王尹京さんおういんきょう 二鮑糾慝じほうきゅうとく

王駿・王尊・王章(前漢)&鮑永・鮑恢(後漢)

 前漢成帝せいていのもとには特に有能であった三人の王氏がいた。王駿おうしゅん王尊おうそん王章おうしょうである。しかし彼らのうち王尊は御史大夫止まり、王駿王章は京兆尹けいちょういん止まりだった。特に王章は王莽おうもうの親族である王鳳おうほうによって誣告され、殺害されている。

 後漢の光武帝こうぶていに仕えた鮑永ほうえいは、別系鮑氏の鮑恢ほうかいを重んじた。彼らはともに剛直であり、光武帝でさえ「あの二人の前で迂闊なことはするなよ」と臣下にいましめたそうである。ちなみに鮑永の父鮑宣ほうせんは王莽によって殺されている。

 王莽まわり、王莽以後で活躍した同姓の能吏。


孫康映雪そんこうえいせつ 車胤聚螢しゃいんしゅけい

孫康(孫氏世録)&車胤(世説)

 東晋の学者、孫康。彼は若い頃貧乏であったが、雪の照り返しを明かりにして学問を修め、大成した。

 東晋末期の学者、車胤。彼もまた若い頃貧乏であったが、蛍を布袋に包み込み、それを明かりとして学問を修め、ついには大成した。

 蛍の光、窓の雪。

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