03-02 明帝劉荘

03-02-01 漢七 明帝劉荘 1

 明帝めいてい。はじめは劉陽りゅうようという名であった。


 母は陰麗華いんれいか光武帝こうぶていは立身する前に言っていた。

「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」

 のちに実際に陰麗華を側妾に迎え、明帝を産んだ。


 明帝は幼い頃から聡明で、光武帝が各州郡の耕地面積や人口を調査させたとき、陳留ちんりゅう郡からもたらされた報告書の上に「潁川えいせん弘農こうのうは調べられようが、河南かなん南陽なんようを調べるのは難しかろう」と書かれていた。光武帝が報告書を持ってきた官吏にそのメモの意味を問いただすと、「町中で話されていたのを書き留めました」と語る。要領を得ない発言に光武帝が怒りを浮かべると、玉座の後で遊んでいた当時 12 歳の明帝が言う。

「報告書を持ってきた者は、あくまで郡主の使いに過ぎません。これは郡主が耕地面積を公平に比較してもらいたい、という意向の表れでしょう。何せ洛陽らくようのある河南は重臣が非常に多く、南陽は陛下の故郷で近親が多い地。こうした地はしばしばひいきされるものですから」

 それを聞いた光武帝が改めて報告書を持ってきた者に問うと、皇子の仰る通りです、と語る。光武帝はこの一件で明帝の才覚に感じ入り、かく皇后を廃し、陰貴人を皇后に立て、明帝を皇太子とし、「劉荘りゅうそう」と改名させた。そして光武帝のあとを継ぎ、即位した。


 59 年、明帝は太学に足を運び、養老礼を行った。三公や九卿のうちもっとも高齢の者を特別な地位、三老や五更に就け敬う儀礼である。三老には「李躬りきゅう」が、五更には「桓栄かんえい」が選ばれた。三老は東に向き、五更は南に向いてそれぞれ席に着く。明帝は葬儀の服装である左袒をして自ら牛や羊を切り分け、調味料を振りかけて両名の前に出し、食べさせる。また杯に酒を汲み、ふたりに口を注がせた。

 儀礼終了後、桓栄やその弟子たちを伴って講堂に入り、儒者たちとともに経典を手にし、疑問点や難解な問題についての議論を交わさせる。この様子をひと目見んと、講堂の周囲は冠帶搢紳、すなわち政争をした者で溢れかえり、その数は数え切れないほどであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る