03-04-06 漢九 党錮名士 3

 黄璚こうきつ以降の三公、たとえば「楊秉ようへい」「劉寵りゅうちょう」といった人物は人々より敬われていた。


 劉寵が会稽かいけいを治めていたとき、見事な治績を上げた。このため都に招聘される。出立のとき、五、六名の老人が山中より現れ、ひとりあたり数百銭を差し出しながら、言う。

「太守様がお越しになって以来、犬も夜に吠えず、民も警邏の物々しい雰囲気に怯えることもなくなりました。その太守様がこの地の守護をなげうち、お去りになると聞き、せめて見送りだけでもできれば、とまかり越した次第にございます」

 劉寵が答える。

「私の政が、本当にあなた方の言う通りであっただろうか。父老らよ、あなた方にはさぞご苦労を掛けたことでしょう」

 そして老人らが差し出した銭の内からそれぞれ大銭一枚のみを受け取った。中央に戻ると司空となった。


 楊秉は朝廷にてきわめて公平な政を行った。河南かなん尹となったときに宦官の意図に逆らい罪を得たが、それでも太尉となり、死亡した。


 陳蕃ちんばんは楊秉の次に太尉となった。しばしば李膺ようへいの人となりについて言及し、司隸しれい校尉に任じた。宦官らは李膺を恐れて身を縮め、息を潜めるありさまであった。敢えて宮殿から出ようともせずにいた。

 この頃朝廷の綱紀は乱れていたが、李膺はひとり気高い志を保ち、名節を重んじた。みだりに人士と交流を持とうともしなかったため、李膺に認められるかどうかについて、人々は「登龍門」と呼んだ。


劉寬りゅうかん」が尚書令となった。

 かつて劉寬は三郡の長を歴任した。仁徳あふれ慈悲深く、官吏や民に過ちがあったとしても、むち打ちの罰に処す時にはがまの穂で罪人を打った。



蒙求もうぎゅう


震畏四知しんいしち 秉去三惑へいきょさんわく

 後漢中期の名士、楊震ようしん。彼はこっそりわいろを持ち寄ってきたものに「天と地とあなたと私がわいろを知っている。受け取るわけにはいかない」とわいろを突っぱねた。

 後漢後期の名士、楊秉ようへい。清廉潔白を旨とし、高官に至った。彼は三つの誘惑を常に自らにいましめていたという。酒、性欲、財貨である。

 自らを厳しくいましめる名士の、いくつかの規範。


郭伋竹馬かくきゅうちくば 劉寬蒲鞭りゅうかんぶべん

郭伋(後漢)&劉寬(後漢)

 王莽おうもうの時代、郭伋が任地に赴任したとき各地にて深い恩徳を授けた。光武帝こうぶていの時代にも再び并州に赴任。彼の赴任を聞いた数百ほどの小さな子が竹馬に乗り、郭伋を歓迎した。

 後漢桓帝かんていの時代、劉寬は南陽なんよう太守として赴任、温厚寛容な政を布いた。部下に過ちがあったときにも蒲鞭、すなわちススキの花のようなもので打ったため、みな痛みは覚えず、ただ罰を受けた屈辱のみを胸に抱えた。

 寛大な恩徳を示した名地方官たち。


劉寵一錢りゅうちょういちせん 廉范五袴れんはんごこ

 後漢末期、会稽かいけいで善政を布いた劉寵が都に戻ることに。すると恩を感じた地元の老人がめいめいに、道中の足しにして欲しいと数百銭ずつを劉寵に持ち寄る。劉寵はそれぞれから一枚ずつを受け取り、残りは返却した。

 後漢章帝しょうていの次代、しょくに派遣された廉范。当時蜀では火災防止のため夜の仕事を禁じていたのだが、「なら火消し用の水用意しときゃええやん」とルールを改正。おかげで蜀の民はだいたい二、三枚しか持てていなかった袴を五本持つほど裕福になれたという。

 民を繁栄させた名地方官。


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