03-09-04 晋二 天下統一 下

 しん討伐の軍を興す。杜預どよ江陵こうりょうより出発し、王濬おうしゅん益州えきしゅうから水軍で下る。呉軍は長江ちょうこうの各地に鎖を渡すことによる妨害策をとった。また鉄製の錐、長さ数メートルにも及ぶものをいくつも川の中に設置した。

 対する王濬は大筏を作り、泳ぎを得意とする者たちに先行させ、錐を見つけるとすべて筏に乗せ回収した。また巨大なたいまつを作り、ごま油をしみこませ、鎖と出くわすたびに焼き払った。さして時を置かずに鎖たちはすべて焼き払われ、長江を進む晋軍を妨げるものはなくなった。そうして王濬は他の軍に先んじて呉の各郡に上陸。また杜預も工作兵たちを派遣し長江を渡らせた。


 ある呉の将が恐れて言う。

「北軍ども、飛ぶように長江を渡るではないか」


 杜預はいくらかの兵を王濬軍に合流させ、武昌ぶしょうを攻め、攻略した。

 杜預は言う。

「兵威は振るっている。例えるなら竹を割るがごとし、と言ったところか。数節ぶん鉈を入れれば、そこから竹は一気に裂ける。そうなればもはやことさらに手を加えることもない」

 各軍に作戦を指示し、それぞれの軍を建業に迫らせる。

 この中で王濬の率いる軍は八万、浮かべる船は百里の長きにもなり、みな帆を上げ建業向けて突き進む。そしてついに太鼓を叩いて建業の玄関口となる石頭城に上陸した。


 孫皓そんこうは両手を後ろ手に縛り、顔を前に突き出し、投降した。洛陽らくように引っ立てられると帰命侯きめいこうに封じられた。これによって孫皓が聞いた「洛陽に入るであろう」という占いが成ったのである。

 呉は孫権そんけんの即位より四人の皇帝を経て、52 年間江南の地に君臨した。孫策そんさくが勢力基盤を固めたところより起算すれば、80 年少々となる。


 晋はから禅譲を受けてのち 16 年にして、ついに天下を統一した。



蒙求もうぎゅう


元凱傳癖げんがいでんへき 伯英草聖はくえいそうせい

 西晋に仕え、呉平定において多大な功績を残した杜預とよ、字は元凱。死ぬほど左伝が好きで、「左伝癖」とあだ名されていた。

 後漢末期の書家、張芝ちょうし、あざな伯英はくえい。彼の筆跡を見てしまえば、過去の偉大な書家たちの書体もかすんで見えるとまで称された。その書への情念はただ事でなく、ついには草書の聖人とまで呼ばれるようになった。

 ただ事ならぬ書への情熱。


楊僕移關ようぼくいかん 杜預建橋とよけんきょう

 前漢の楊僕は将軍として大きな功績を挙げていた。このとき函谷関かんこくかんがいまよりも西にあったため楊僕は関外の人間扱いとなっていた。これを嫌った楊僕、武帝ぶてい陛下にお願いして函谷関を東に移し、無事関中の人間となることができましたとさ。なお最終的に破滅している。

 西晋の杜預とよ孟津もうしんにあった黄河こうがにかけている橋が危ないからと富平津ふへいしんに移すべく建議。周囲の反対もあったが押し通した。結果できた橋は見事なもので、その仕事を武帝より大いに讃えられている。

 巨大建築物の造成に取りかかったふたり、の光と闇。


王濬懸刀おうしゅんけんとう 丁固生松ていこせいしょう

 西晋の天下統一に大いに寄与した名将、王濬。彼は四本の刀が梁にかかった夢を見、後日将軍に抜擢された。

 孫呉末期の三公となった丁固は腹の上に松の生える夢を見た。松の字は分解すると「十八公」となる。その言葉通り、夢を見た十八年後についに三公にまで上りつめた。

 夢が示した、昇進の兆し。

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