04-03-08 晋四 後趙滅亡

 東晋とうしん穆帝ぼくていが立つと、後趙こうちょうでは石虎せきこが皇帝を名乗り、間もなくして死亡した。子の「石世せきせい」が立った。


 石世が「石遵せきじゅん」に殺された。

 石遵も「石鑑せきかん」に殺された。

 さらに石鑑も「石閔せきびん」に幽閉され殺された。


 石閔は皇帝と名乗ると、国号をに改め、石虎の孫 38 人を殺害。石氏を滅ぼした。

 石閔は、もとの名を冉閔ぜんびんと言う。石氏の養子入りしていたのだが、石氏を滅ぼし尽くした上、もとの姓に戻した。

 後に燕によって攻め破られ、殺された。



 これらの争乱を厭う形で東晋とうしんに亡命する勢力があった。蒲洪ほこう、「姚弋仲ようよくちゅう」である。


 前趙ぜんちょう後趙こうちょうの代々の君主たちに仕えてきた蒲洪であったが、石遵に対し、石閔が語る。

「蒲洪は人傑です、今は関中かんちゅうの抑えとなっておりますが、このままでは秦州しんしゅう雍州ようしゅうは我が国の保有ではなくなってしまうでしょう」

 この言葉を信じ込み、石遵は蒲洪から都督の地位を剥奪した。蒲洪は怒り枋頭ほうとうに帰還、そしてついには晋に投降したのである。しかし間もなくして独立、西方に去った。


 姚弋仲ようよくちゅう南安郡なんあんぐん赤亭県せきていけん出身の羌族きょうぞくの酋長であった。懐帝かいていの時代の末年、異民族や漢人といった区別なく姚弋仲の元に荷物を抱えて付き従った。

 姚弋仲は扶風公ふふうこうを自称し、のちに劉曜りゅうように、そして石勒せきろく石虎せきこに仕えた。中でも石虎は姚弋仲を非常に重んじ、冠軍大将軍かんぐんだいしょうぐんに任じていた。

 石虎死後の内乱を経て冉閔が石氏を滅ぼし尽くすと、姚弋仲は晋に使者を送り、帰服。間もなくして死亡した。

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