02-07-03 漢五 元帝劉奭 下

 やがて、弘恭こうきょうが死亡。石顕せきけんの権勢は日増しに大きくなっていった。「牢梁ろうりょう」や「五鹿充宗ごろくじゅうそう」らと結託し、おべっかを使ってくる者たちを高位に引き入れた。このありさまを、人々は

 牢邪石邪 五鹿客邪

 印何纍纍、綬若若邪

  あの人は石顕の郎党の、

  はてさて、誰に従うのか。

  それにしても、なんとも

  印璽のひもの長きこと!

 と皮肉った。


 前 44 年、匈奴きょうどの「郅支單于しちしぜんう」が漢よりの使者を殺し、西方の康居こうきょに逃れた。

 前 43 年、匈奴の「呼韓邪こかんや單于ぜんう」が漢に帰属を申し出た。

 

 前 37 年、「京房けいぼう」が殺された。彼は「焦延壽しょうえんじゅ」より学んだ腕利きの易者で、しばしば災害を予言。そのかれが石顯を災いだと言ってしまったため処刑されたのである。


 前 36 年、西域守護副官の「陳湯ちんとう」が詔勅を偽って勝手に出撃、「甘延寿かんえんじゅ」を連れ立って郅支単于しちしぜんう康居こうきょにて殺害した。前 35 年に首が長安ちょうあんに届き、十日間のさらし者とされた。


 前 33 年、呼韓邪単于こかんやぜんうが来朝。漢より嫁を求めた。そこで王昭君おうしょうくん(本名は王嬙おうしょう)が妃としてあてがわれた。


 同年、元帝は死亡した。在位十六年、改元は四回。初元しょげん永光えいこう建昭けんしょう竟寧きょうねいである。元帝は儒を重んじたとは言え、韋玄成いげんせい匡衡きょうこうを宰相としたが、ともに石顕の権勢下で宰相としての仕事は為し遂げられなかった。

 優柔不断であった元帝のもと、漢の威勢は大いに衰えた。


 太子が即位した。成帝せいていである。



蒙求:


晏御揚揚あんぎょようよう 五鹿嶽嶽ごろくがくがく

晏平(史記)&五鹿充宗(前漢)

 斉の景公に仕えた晏子の車を引く御者は四頭の馬を率い、いかにも誇らしげであった。それを妻に「ご主人様があれだけ謙虚なのに、その召使いのあなたが威張り散らすなんて!」と怒られ、以後振る舞いを改めた。

 五鹿充宗ごろくじゅうそうもやっぱりその手のエピソード。前漢ぜんかん元帝げんてい時代の易学者で弁舌バリバリであったのだが、朱雲しゅうんという学者にベキベキにへし折られまくった。

 史書上でそれほど大きな作用をもたらしたわけでもない二人、ともに伸びた鼻をへし折られた感じですが、片方は改心、片方は挫折と、真逆なところもありますね。


許史侯盛きょしこうせい 韋平相延いへいしょうえん

 前漢前漢宣帝せんてい皇后きょ氏は本人こそ霍光かくこうの娘の策謀によって殺されたが、その親族たちが多く諸侯として封爵を受け、栄華を極めた。また宣帝の祖母に当たる史良娣しりょうてい武帝ぶていの巫蠱事件に巻き込まれ殺されたが、その子孫らの多くが栄達に与っている。

 同じく前漢では韋賢いけん韋玄成いげんせい親子、そして平当へいとう平晏へいあん親子のみが親子揃っての宰相になった。

 家族揃って栄達した人たち。


京房推律けいぼうすいりつ 翼奉觀性よくほうかんせい

 前漢元帝の時代の易者、京房は抜群の腕前を誇っていたが、師よりは「わしの術を使って身を滅ぼす者がいるとしたら京房であろう」と危ぶまれていた。そして実際に時の権勢者である石顕らと衝突、結果刑死している。

 同じ時代に生きた翼奉は同じく占術に長けていたが、こちらは誰かと衝突することなく、あくまで元帝のためのアドバイザーとして身を全うしている。

 ふたりの占術者の明暗。

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