03-07-04 漢十 曹操 上

 曹操そうそう。宦官「曹騰そうとう」の養子の子である。あるものは夏侯かこう氏の子孫であるとも言う。幼い頃より抜群の知性を示し、早くから軍略に長けていた。やくざ者として暴れまわり、徳業には欠けていた。

 汝南じょなんの「許劭きょしょう」は、従兄の「許靖きょせい」とともに有名であり、近隣の人物についての評価を加え、毎月はじめに評論を更新していた。このため汝南では人物評価が巷に流行っていた。

 曹操が許劭のもとに赴き、人物評を依頼する。しかし許劭は答えない。曹操が剣を抜いて脅すと、ようやく答える。

「あ、あなた様は治世の能臣、乱世の姦雄にございます!」

 曹操はこの評価に喜び、やがて黄巾党こうきん討伐のために立ったのである。


 曹操が董卓とうたく討伐に出た時、滎陽けいようで戦い、河內かだいに帰還し、駐屯。間もなく東郡とうぐん太守に任じられ,ひがし武陽ぶようの統治に当たった。そこから兗州えんしゅう入りして拠点とし、兗州刺史に任ぜられるよう献帝けんていに使いを飛ばし、兗州牧の地位を得る(牧は刺史よりもより統治権が強い)。このころ献帝は洛陽らくように戻っていたのだが、曹操は献帝の居場所をきょに移した。


 呂布りょふを攻撃、討ち取った。


 袁紹えんしょう冀州きしゅうに陣取り、ついに官渡かんとにて曹操と対峙した。曹操は袁紹軍の輜重を焼き払うことでその士気をくじき、逃げようとしたところを徹底的に追撃した。袁紹は屈辱と怒りに吐血し、死んだ。

 一方中央では、「董承とうしょう」が密かに献帝よりの詔勅を受け、劉備りゅうびとともに曹操を討つ計画を立てていた。しかし計画は漏れ、劉備は逃亡。曹操は討伐軍を繰り出すが、捕まえられなかった。



蒙求もうぎゅう

王衍風鑑おうえんふうかん 許劭月旦きょしょうげつたん

 西晋を代表する名士のひとりである、王衍。まだ世が平和であったとき、石勒せきろくが洛陽にやってきていた。王衍は石勒を見て、「素性はわからないが、あやつのような者がのちに天下に災いをもたらすのだ」と断じ、殺そうとするも失敗。のちに無事殺された。

 後漢末の許劭は月旦、すなわち人物評価で名を知られていた。その月旦が曹操そうそうを見たときはじめ評価にも値しないとシカトを決め込んだが、直後に脅され、例の「治世の能臣、乱世の姦雄」評を語った。

 早い段階で姦雄を見抜いたふたり。

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