03-05-02 漢十 霊帝劉宏 下

 陳蕃ちんばん竇武とうぶが主導権を握っている間は李膺りようらが再び抜擢されていたが、両名が死亡すると李膺らは再び官位を永久に剥奪された。第二次党錮とうこの禁である。

 さらに、宦官の曹節とうせつが讒言をなす。これによって李膺が引ったてられ、監獄の中で責め殺された。


 同じく范滂はんぼうもとらわれることとなった。別れ際、母が言う。

「お前の名は、いまここに李膺様、杜密とみつ様に並ぶのです。ならばどうしてその死を憾みましょう」

 范滂はひざまずいてその言葉を聞き、それから今度は息子の方に振り返り、言う。

「お前には宦官どもと結託させたほうがいいのか、とも考えはした。だが、悪事をなさせるわけにもゆかぬ。お前には善なる行いをしてほしいのだ。だから、わしは悪と最期までつるまなかったのだ」

 この挨拶を聞いている者たちはみな涙した。


 この疑獄にて刑死した人士は百人、死刑の他、流刑や永久罷免の処分を受けたものを合わせれば六、七百人にも及んだ。

 郭泰かくたいは密かに嘆き、言う。

人之云亡ひとがほろべば邦国殄瘁くにがおとろえる(大雅・瞻卬)。まさにいま、漢が詩経に歌われる破滅の際にあるかのようではないか。詩はこうも歌ったな、瞻烏爰止とりがとまった于誰之屋だれのいえにか(小雅/正月)と。結局私は、かの鳥たちのとまり木にはなれなかったのだ」

 郭泰は人物評論こそなしたが、暴言や誹謗などはなさなかったため、この混濁した世の中をも泳ぎきり、災いに遭わずに済んだのだ。



 朝廷では儒者らに五経のテキストを検証させて正し、そのテキストを「蔡邕さいよう」に三フォントにて石碑に刻ませ、太学の門外に立てた。

 こうした振る舞いが示すように、霊帝れいていは文学を好み、臣下らのうち文や賦を得意とするのもたちを集め、鴻都門の下に揃えた。そうして太学が立てられたわけだが、そこに集う学生は並べて小人であり、君子はその中に交じるのを恥じたと言う。


 こうした流れの中で、三国時代の画期たる黄巾党こうきんとうの乱が勃発する。

 十八史略の時代区分に合わせると三国志がぼやけてしまうので、ここでいったん節を区切ることとしよう。



蒙求もうぎゅう

周公握髮しゅうこうあくはつ 蔡邕倒屣さいようとうし

『韓詩外伝』に、周公旦は来客があれば、例え洗髪中でも髪を握ったまま応対に出たと書かれている。それだけ人材を逃したくなかったのだ、と。

 一方の蔡邕さいよう後漢ごかん末の文人トップオブトップ。そんな蔡邕がたくさんの人の訪問をさばく中、幼少ながらすでに抜きん出た文才を放っていた「王粲おうさん」の訪問に気付き、下駄を踏み外しながらも駆け寄り、その才を激賞した、と言うもの。王粲は後に曹操そうそう曹丕そうひの元で建安けんあん文学を花開かせる「建安七子」の一人として讃えられる。

 得難い人材のためになりふり構わぬ二人、という感じですね。

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