04-08-08 魏九 高歓・高澄

 霊太后れいたいごうの時代、張彝ちょうい親子が羽林兵うりんへいらに攻め殺されたときのことである。六鎮りくちんのひとつ、懐朔鎮かいさくちんより書類提出の任を受け洛陽にやっていた者がいた。高歓こうかんである。張彝らの死に方を目の当たりとすると、高歓は家に戻り、私財を投じ賓客をかき集め始めた。その理由について問う者があったため、こう答えている。

「衛兵どもが大臣の館を焼いたにもかかわらず、朝廷は報復を恐れてまともにそやつらを罪に問えなかったのだ。政の枢要がこうなら、他の所とて推して知るべしだ。どうせ財物なぞ、いつまでも保持しきれるものでもない」

 高歓は祖父が罪を得たために「北辺に居を移され」[要検証]、以降「鮮卑せんぴの習俗に通じるようになった」[要検証]。冷静沈着にして器も広く、深く、侯景こうけいらと親交を結び、任侠として郷里の雄となった。そして爾朱栄じしゅえいの元で力を溜め、ついには爾朱氏を排除するに至った。

 高歓は孝武帝こうぶていのもとで太丞相たいじょうしょうとなり、晋陽しんように幕府を構え、自身はそこに身を置いた。


 孝武帝は高歓を恐れ、晋陽を攻撃せんと計画したが、計画を察知した高歓が先んじて動き出したため長安ちょうあんにいた関西大都督かんせいだいととく宇文泰うぶんたいを頼った。高歓は追撃をかけたが、追いつけなかった。高歓は洛陽に戻ると、空となった玉座に清河王せいがおうの世子である元善見げんぜんけんをつけ、さらにその身柄をぎょうに移した。

 元善見はのちに東魏とうぎ孝静帝こうせいていと呼ばれる。すなわちこの時、道武帝どうぶていより始まった北魏ほくぎは十二代百四十九年を経て、東西に分裂したのである。


 孝武帝は長安に至って半年ほどしたところで宇文泰と決裂、毒殺された。その死後には南陽王なんようおう元宝炬げんほうくが立てられた。西魏せいぎ文帝ぶんていである。

 高歓と宇文泰は何年も戦いを繰り広げ、勝ったり負けたりを繰り返した。やがて高歓は末期の床にて、息子の高澄こうちょうに言う。

「侯景には飛揚跋扈の志があり、お前では抑え切れるまい。あれをどうにかできるのは、おそらく慕容紹宗ぼようしょうそうくらいのものだ」


 侯景は高歓の死後、その見立て通り一度は河南かなんを手土産に西魏を経てりょうに出奔を企てた。このため高澄は慕容紹宗を発し侯景を攻撃するも、梁に逃げ込まれてしまう。

 その後梁との交渉を経て侯景引き渡しの密約を結び、それが侯景の乱に繋がったのはすでに見たとおりである。

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