03-06-02 蒙求 上1

武仲不休ぶちゅうふきゅう 士衡患多しこうかんた

傅毅(後漢)&陸機(晋)

 後漢章帝しょうていの時代に活躍した文人、傅毅ふき。彼は抜群の詩才を備えてこそいたが、いついつまでもずっと書いていないとその詩才を維持できなかった、と他者より批判されていた。

 もとに仕え、やがて西晋せいしんに仕えることになった三國志さんごくし陸遜りくそんの孫、陸機りくき。彼は抜群の文才を備えていたのだが、それ故にトラブルにも巻き込まれ、最後は八王の乱にて剛直を貫き、死んだ。

 すごい文人、性格も剛直。


郤詵一枝げきしんいちし 戴憑重席たいふうじゅうせき

 西晋武帝ぶていに抜擢された地方長官、郤詵げきせん。彼は武帝より自らの才能がどれほどかと聞かれたとき、「まあ一流は一流でしょうが、小者ですよね」と自任した。その表現が宝玉の林の一枝、崑崙山に転がる石、というものだ。

 後漢の創始者、光武帝が正月の席で臣下らに経典に関する難問を提示し、答えられなかったら席を奪う、といった催しを開いた。その中にあって戴憑は五十問もの難問に答えきり、その才覚を燦然と示した。

 皇帝の前で示した文人たちの矜恃と意地。


鄒陽長裾すうようちょうきょ 王符逢掖おうふほうえき

鄒陽(前漢)&王符(後漢)

 前漢創立期に活躍した文人、鄒陽。彼が仕えた呉王が反乱を企んだ。そこで鄒陽は「あんたがそうやって良からぬことを企むんなら、あんたのために長い裾を引きずって仕えるわけにはまいりませんな」と言って諫める。聞き入れらなかったため鄒陽は呉王のもとを去った。

 後漢の名士皇甫規は財貨で郡太守の座を得たものとの面会は拒絶したが、世俗と交わらず学名を高めていた王符とは喜んで会った。「地方長官どのは逢掖を着た儒者殿に劣るらしい」と世に言われるようになったという。

 高節の名士が着ていた服。

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