02-06-04 漢四 宣帝劉詢 1

 宣帝せんてい、はじめの名は「劉病已りゅうへいい」であったが、のちに劉詢りゅうじゅんと改めた。武帝ぶていの曾孫である。はじめ武帝の太子であった劉拠りゅうきょが「」と言う女を側女に迎え入れ、「劉進りゅうしん」をもうけた。その後巫蠱事件が起き、劉拠以下みな獄につながれた。ここで占者が「長安の獄中に天子の気あり」と語ったため、武帝は劉拠以下を皆殺しにしようと目論んだ。しかし獄卒の「丙吉へいきつ」がそれを拒否する。

「罪なき者を他人が殺すことなぞあってはならぬ、ましてはここにおわすは陛下の曾孫にあらせられる」

 この言葉は武帝のもとに報告された。すると武帝も「これも天命なのであろう」とと語り釈放した。

 成長すれば才高く、学を好んだ。一方で游俠としても名を馳せた。このため巷間の悪事、役人の取締による得失なども学んでいった。

 昭帝しょうていの存命中、泰山たいざんにあった大きな石がひとりでに起き上がった。また上林にあった風にへし折られた木がひとりでに立ち上がって新たに葉をつけ、その葉を虫たちが食べた。すると「公孫病已立」の文字が浮かび上がったという。

 時に皇太子の劉賀りゅうがが廃されたタイミング、劉病已は十八歳であった。このため霍光かくこうらは劉病已の優れた人となりを改めて皇太后に上奏。こうして昭帝の後継者として認められ、即位した。六年後に霍光が死亡。ここから親政を開始した。



 前 67 年、「路温舒ろおんじょ」が上奏して言う。

始皇帝しこうていの国、しんの統治には十の過ちがございましたが、そのうちの一つはいまもなお残されております。それは獄吏が尊ばれておることです。人々は獄吏の取締に悲鳴を上げて参りました。ならばここで酷法を緩和することにより、天下はますます泰平となりましょう」

 そこで宣帝は廷尉平という官職を新設、裁判ごとに従事させた。この裁定は極めて公平なものであった。



蒙求もうぎゅう

文寶緝柳ぶんほうしゅうりゅう 溫舒截蒲おんじょせつぶ

 楚国先賢伝そこくせんけんでんに載る孫文宝そんぶんぽうは学業を修めるに当たり、柳の葉をつなぎ合わせて木簡の代わりとしたという。

 前漢の路温舒はガマの葉をつなぎ合わせて学び、やがてその学習態度が認められ立身、赴任先もよく治めた。

 何が何でも学んでやると木の葉に食いついてでも取り組んだ学習者ふたり。

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