04-03-02 晋四 哀・廃・簡文

 哀帝あいてい司馬丕しばひは即位して 2 年後に病に冒され、その 1 年後に死亡した。



 弟の司馬奕しばえきが後継者とされた。成帝せいていの末子である。即位すると、大叔父の司馬昱しばいく丞相じょうしょうに任じられた。


 えん桓温かんおんの確保していた洛陽らくようを陥落させ、守将を殺した。この事態を受け、桓温は兵を率い燕討伐に動く。

 しかし枋頭ほうとうにて大敗した。


 燕将の「慕容垂ぼようすい」は、桓温を破ったことによりその威名が日増しに盛んとなったが、そのために慕容暐ぼよういより忌避されるようになった。このため慕容垂は前秦ぜんしんに出奔した。

 間もなくして、前秦が前燕を滅ぼした。


 桓温は褚太后ちょたいごうに司馬奕を廃する旨申し出た。在位は 6 年。司馬昱が皇帝に立てられた。簡文帝かんぶんていである。



 簡文帝は元帝の子である。清廉、恬淡、寡欲。清談を得意とした。桓温がやってきて司馬昱を皇帝に押し上げたが、九ヶ月後には病を得て危篤に陥った。このため急遽桓温を召し出し、言う。

「そなたにはよく帝を補佐すること諸葛亮しょかつりょう様や王導おうどう様のごとくあって頂きたいのだ」

 桓温は臨終の床にあって簡文帝より禅譲の意向を得よう、あるいは自身に宰相としての大権を与えさせようとしたのだが、叶わなかった。このとき「謝安しゃあん」や「王坦之おうたんし」もまた朝廷にあった。桓温は王坦之らが桓温の野望を挫くために動いたのではないかと疑い、大いに恨みを抱いた。


 簡文帝が死亡した。太子が立った。「孝武帝こうぶてい」である。



蒙求もうぎゅう

周侯山嶷しゅうこうさんぎ 會稽霞舉かいけいかきょ

周顗(世説)&司馬昱(世説)

 東晋初期の名臣、周顗。自他共に厳しいひとであり、そのありようはまるで切り立った岩山のようである、と評されていた。

 東晋簡文帝、司馬昱。皇帝になる前に会稽王であった彼の存在は実にたおやかなものであり、ピリピリした宮中の緊張感も、彼が現れることで朝靄が立ちこめるかのごとく和らいだという。

 東晋名臣たち、そのありよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る