01-10-02 趙五 先祖 簡子

 文子ぶんしが死ぬと、「景叔けいしゅく」を経て「簡子かんし趙鞅ちょうおうの代に。家臣によく諫言を為す「周舍しゅうしゃ」がいたのだが、彼が死ぬと、政務のたびに簡子は直言でこちらを諫める者がいなくなってしまった、と洩らした。

 簡子にはふたりの子がいた。「趙伯魯ちょうはくろ」「趙無恤ちょうむじゅつ」である。ふたりに訓戒を記した木簡を授け、三年後に訓戒について問う。すると伯魯は訓戒をまるで覚えないどころかなくしたといい、無恤は訓戒を暗記していた上、常に懐に収めていた。このことから趙無恤を後継者として定めた。


 趙の封地の内、「晉陽しんよう」は国土防衛の要地である。そこを「尹鐸いんたく」に守らせることになった。尹鐸は統治方針を使役とするか保障とするかを問う。簡子は保障にせよと答えた。すると尹鐸は租税を減じ、晋陽の民より讃えられるようになった。なので簡子は趙無恤に、いざとなったら晋陽に頼るように、と言い残した。


 とまぁ仁者のごとく書かれてはいるのだが、「孔子こうし下」では「賢人を殺した」として孔子から失望されているし、また「三晋分立」で語られるはん中行ちゅうぎょう二氏の滅亡も簡子の代のことである。だいぶ他国での書かれ方と温度差が激しい。



蒙求もうぎゅう

魏舒堂堂ぎじょどうどう 周舍諤諤しゅうしゃがくがく

 魏舒は魏末晋初を生き抜いた大臣。素朴な性格をしていたが、よく人材を推挙した。不才を理由に辞職を申し出ても、司馬昭より「そなたのその堂々たる振る舞い、まさに人々の領袖たるに相応しい」と賞賛を受けている。

 秦に仕えた趙簡子の配下のひとり、それが周舍だ。彼は直言を好み、それによって簡子は常に彼を煙たがっていた。しかしその死後には「彼の諤諤たる直言がなくなり、配下は唯々諾々とするのみだ。このままでは危うい」と語ったという。

 人主に仕える有能な配下、それぞれのありよう。

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