03-07-08 漢十 孫堅・孫策

 を建てたそんけんの父、そんけん。袁紹えんしょうが呼びかけた反董卓とうたく連合に呼応し、数万の兵を率いて南陽なんように出ると、袁術えんじゅつの軍と合流した。袁術軍の先鋒として戦い、行く先々で董卓軍を撃破した。

 反董卓連合解散後、袁術は孫堅そんけんを利用して荊州けいしゅうを手中に収めようと画策した。しかし荊州を守る「劉表りゅうひょう」の将、「黄祖こうそ」率いる歩兵の放つ矢にかかり、孫堅は戦死した。


 同じ頃、孫堅の子である「孫策そんさく」「孫権そんけん」兄弟は出身地の富春ふしゅんからじょに移った。このとき孫策は十七歳。袁術のもとに出向いて、父が率いていた兵を返却してもらった。


 孫策は十歲過ぎの頃、多くの人士と校友を結び、名を知られていた。舒の名士の一族である「周瑜しゅうゆ」は孫策と同い年であり、早くからその英明さを明らかとしていた。

 そんな周瑜が、孫策の決起に従う。孫策が長江を渡り東に転戦すると、まともに防げるものもいなかった。はじめ人々は孫策の到来に震え上がったのだが、侵攻した先で一切の略奪を働かなかったため、人々はむしろ孫策の到来を喜ぶようになった。


 こうして孫策は江東を平定、献帝けんていのいるきょを目掛け進軍を目論んだ。しかし出立前に出向いた猟のさなか、以前孫策が殺害した「許貢きょこう」の奴隷からの狙撃を受け、致命傷を負った。


 孫策は孫権を呼び、配下らを託し、言う。

江東こうとうの民を率いて曹操そうそう袁紹えんしょうの間に割り込む機会を探り、奴らと天下を争う才ならばおれのほうが上だろう。しかし賢人や能才を活かし、彼らの心をも束ね、この地を保つ才ならばそなたのほうが上だ」

 そして死亡した。26 歳であった。



蒙求もうぎゅう

漂母進食ひょうぼしんしょく 孫鍾設瓜そんしょうせつか

 韓信は貧乏もので、日々の食事もろくに取れないありさまだった。それを憐れんだわた洗いの婦人に食事を恵んでもらった。そして漢の誇る大将軍として立身した韓信、彼女に厚く酬いたという。

 孫鐘は呉の孫堅の父である。貧乏暮らしをしていた中で瓜を何とか収穫できたのだが、折悪しく、そこに三人の客。しかも瓜が食べたい、と言う。孫鐘、自らの思いは殺し、彼らに食事、そして瓜を与えた。そうしたら、その三人は実は運命を司る神であった! 後日の息子以下については、あえて語るまでもないだろう。

 食に酬いる人たちの話。

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