02-06 昭帝・宣帝

02-06-01 漢四 昭帝劉弗陵 上

昭帝しょうてい」、名は劉弗陵りゅうふつりょう。母は「ちょう氏」。妊娠すること十四か月にして生まれた。これがぎょうが生まれるまでの年月と同じであったため、武帝ぶていは趙氏の住む宮殿の門を堯母門ぎょうぼもんと改めた。七歲にして頑健な体つき、優れた知恵をも備えた。そのため武帝は後継者として立て、後見人をつけようと考えた。群臣を見渡し、霍光かくこうの忠誠が厚いのを見出した。そこで霍光に後見を任じ、周公旦しゅうこうたん成王せいおうを後見する絵を下賜した。


 武帝が死亡する直前、趙氏に死が与えられた。「昔から国が乱れるのは幼主の母が権勢を持ち、政を壟断するためである」がその理由である。翌、前 86 年に武帝は死亡、昭帝が即位した。兄の劉旦りゅうたんが兄なのに即位できなかったことを恨み謀反を起こそうとしたが鎮圧された。昭帝は兄については赦免、配下らを誅殺するに留めた。


 前 81 年、蘇武そぶ匈奴きょうどの元より帰還した。蘇武は北海ほっかいの上に移され、自らの手で穴を掘って暮らし、草木や木の実を蓄えて暮らした。寝るにも起きるにも漢の旗を手放さずにあった。同じく匈奴に捕らわれるもある程度不自由のない暮らしをしていた李陵りりょうが蘇武に尋ねている。

「人生は朝露のごとくはかないものだ。だのにどうしてそのように自ら苦しみの中に身を置くのだ」

 李陵は「衛律えいりつ」とともに匈奴の元で地位を与えられていた。そして蘇武にもしばしば匈奴に降るよう勧めていたのだが、結局蘇武が折れることはなかった。

 後日漢の使者が匈奴の元にやって来たとき蘇武の返還を要求したが、匈奴が既に蘇武は死んだと偽った。それに対し使者は言う。

「先ごろ天子が一羽の雁を射止めたところ、その雁の足には布地で便りがくくりつけられていた。その書には蘇武が北海のそばにいる、と書かれていたぞ」

 それで匈奴も隠し通しきれず、ついに蘇武を解放した。匈奴に拘留されること十九年、頑健であった彼は髪の毛がことごとく白くなっていた。


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