02-09-02 蒙求 上2

楊僕移關ようぼくいかん 杜預建橋とよけんきょう

 前漢の楊僕は将軍として大きな功績を挙げていた。このとき函谷関かんこくかんがいまよりも西にあったため楊僕は関外の人間扱いとなっていた。これを嫌った楊僕、武帝ぶてい陛下にお願いして函谷関を東に移し、無事関中の人間となることができましたとさ。なお最終的に破滅している。

 西晋の杜預とよ孟津もうしんにあった黄河こうがにかけている橋が危ないからと富平津ふへいしんに移すべく建議。周囲の反対もあったが押し通した。結果できた橋は見事なもので、その仕事を武帝より大いに讃えられている。

 巨大建築物の造成に取りかかったふたり、の光と闇。


陳遵投轄ちんじゅんとうかつ 山簡倒載さんかんとうさい

 陳遵ちんじゅん王莽おうもうの時代の名士だったが酒癖がすごかった。酔っ払うとやって来ていた客の車の車軸(轄)を井戸の中にぶん投げ、門も封鎖し、急用があったとしても帰れなくしてしまったという。

 竹林七賢ちくりんしちけん山濤さんとうの息子である山簡さんかん荊州けいしゅうに出向したとき、永嘉えいかの乱が勃発。洛陽らくようは史上まれに見る大混乱に陥った。それを知った山簡、荊州の地で酒を浴びるように飲んではぶっ倒れる毎日を送った。

 破滅的な時代における、放埒な酒の飲み方のふたり。


三王尹京さんおういんけい 二鮑糾慝にほうきゅうとく

 前漢成帝せいていのもとには特に有能であった三人の王氏がいた。王駿おうしゅん王尊おうそん王章おうしょうである。しかし彼らのうち王尊は御史大夫止まり、王駿王章は京兆尹けいちょういん止まりだった。特に王章は王莽おうもうの親族である王鳳おうほうによって誣告され、殺害されている。

 後漢の光武帝こうぶていに仕えた鮑永ほうえいは、別系鮑氏の鮑恢ほうかいを重んじた。彼らはともに剛直であり、光武帝でさえ「あの二人の前で迂闊なことはするなよ」と臣下にいましめたそうである。ちなみに鮑永の父鮑宣ほうせんは王莽によって殺されている。

 王莽まわり、王莽以後で活躍した同姓の能吏。

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