04-03-06 晋四 桓温 4

 桓温かんおんは「謝安しゃあん」を副官として登用した。

 穆帝ぼくていが死亡した。哀帝あいていを経て司馬奕しばえきが皇帝に立てられた。


 桓温かんおんは哀帝の時代より、大司馬だいしば都督ととく中外ちゅうがい諸軍事しょぐんじ録尚書事ろくしょうしょじに任じられ、揚州牧ようしゅうぼくを加えられた上、姑孰こじゅくに拠点を移された。郗超ちちょうを参軍(側近、的な意)、「王珣おうしゅん」を主簿(事務方のまとめ役、的な意)に据えた。この二人について時の人は「ひげ参軍とちび主簿はよくよく桓公を喜ばせ、怒らせるのだ」と語った。


 燕軍えんぐんが桓温の確保していた洛陽らくようを陥落させ、守将を殺した。この事態を受け、桓温は兵を率い燕討伐に動く。枋頭ほうとうにて戦い、大敗。撤退した。

 その後間もなくして、燕が前秦ぜんしんに滅ぼされた。


 桓温はひそかに東晋とうしんを乗っ取らんと志していた。しかし病を得て床に伏すと、枕を撫で嘆息しながら、語る。

「男児たる者、百世に渡る名声を残せぬのであれば、せめて腐臭を万年に垂れ流したかったと言うに!」

 大きな功績を立て、帰還して九錫きゅうしゃくを得ようという算段であったが、枋頭の大敗によってその威名も頓挫した。


 そこで郗超ちちょうが勧めてきたのが「伊霍いんかくの事」、すなわち伊尹いいん霍光かくこうに倣って不徳なる皇帝を廃し、徳高き皇帝を据える試み(伊尹は一旦王を廃ししばらく蟄居させたのち復位させる、であったが)であった。両名はその不忠と取られかねない行為を敢えて断行することで大権を得ている。

 桓温はこの勧めに従い入朝、褚太后ちょたいごうに司馬奕を廃する旨申し出、承認された。在位は 6 年。

 司馬昱しばいくが皇帝に立てられた。簡文帝かんぶんていである。


 しかし簡文帝は即位後間もなくして病を得、危篤に陥った。

 桓温は簡文帝より禅譲の意向を得よう、あるいは自身に宰相としての大権を与えさせようとしたのだが、叶わなかった。このとき謝安しゃあんや「王坦之おうたんし」もまた朝廷にあった。桓温は王坦之らが桓温の野望を挫くために動いたのではないかと疑い、大いに恨みを抱いた。


 そして簡文帝が死亡した。太子が立った。「孝武帝こうぶてい」である。



蒙求もうぎゅう

郗超髯參ちちょうぜんさん 王珣短簿おうしゅんたんぼ

 東晋の名将桓温にはふたりの名幹部がいた。豊かな髭を蓄えた郗超、おちびの王珣である。ふたりは桓温をよく笑わせ、よく怒らせたという。

 桓温を大いに支えたふたり。

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