03-01-15 漢七 光武帝劉秀13

 48 年、南匈奴みなみきょうど八部が日逐じつろく王のを立てて「醢落尸逐鞮かいらくしちくてい単于」とした。漢の門戸を叩いて従属を誓った。ここをきっかけに、匈奴は南北に割れることとなった。

 49 年、貊人はくじん鮮卑せんぴ烏桓うがんもまた参内した。

 50 年、南単于庭、醢落尸逐鞮単于のための宮殿が建てられた。あわせて使匈奴中郞将を赴任させて南匈奴の領域を管轄させた。のちに醢落尸逐鞮単于は西河さいが美稷びしょく県に移住した。

 51 年、北匈奴も和親を願い出てきたが却下した。翌年にも再度使者を派遣してきたため、認めた。


 57 年、光武帝こうぶていが死亡した。

 決起したときに 28 歳、即位が 31 歳の時のことであった。その詔勅による指令書の文は自らが筆を執り各地に発布させていた。その文章は一枚の竹簡に十行も細やかに記された丹念なものであった。「第五倫だいごりん」などはその詔書を読むたび、「陛下はまさに聖主であらせられるのだ、ひとたび私をお見かけ頂ければ、たちまち抜擢くださるに違いない」と語っていた。



蒙求もうぎゅう

劉整交質りゅうせいこうしつ 五倫十起ごりんじっき

 南朝梁に仕えた劉整は甥を自宅で養うことになったのだが、その食費をその母が出そうとしなかったため、彼女が出かけるときに用いる車用の掛け布を強奪、質に出してしまった。この横暴を彼女がお役所に訴え出たところ、「甥のために頑張れねーやつはクソだ」とお裁きがくだり、劉整は懲戒免職された。

 後漢光武帝のもとで刺史に抜擢された、第五倫。彼は甥が病に伏せったとき、一晩に十度も看病のために足を運ぶほどの献身ぶりを示した。

 甥のために頑張らない叔父もいれば、頑張る叔父もいるもんだね。

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