02-03-17 漢一 蕭何・曹参 上

 三傑最後の一人、蕭何しょうかについてだ。曹参そうしんについてもあわせて紹介する。


 劉邦りゅうほうとは同郷であり、陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱の際、劉邦が決起したときには既に蕭何、そして曹參も既に戦列に加わっている。しん末の混乱に乗じ勢力を広める劉邦がついに咸陽かんようを陥落させるも、鴻門こうもんの会によって項羽の風下につき、漢中かんちゅうに実質左遷させられた。この処遇に劉邦は怒り項羽討伐に出ようとしたが、蕭何が諫めて言う。

「どうかこの地の王として、この地の民を完全に押さえた上で打って出られませ。さすれば三秦も手中に入り、天下がその手元に収まって参りましょう」

 そこで劉邦は漢中巴蜀はしょくの経営に乗り出し、また蕭何を丞相とした。


 漢中王に任じられた劉邦、漢中に向かう。この頃蕭何は韓信かんしんと出会い、その才能を並外れたものだと感じ、劉邦に推挙した。韓信の大将軍着任までのいきさつは既に見た通りだ。

 劉邦の再決起にあたり、蕭何には漢中にて巴蜀の糧秣を集積、軍資として配備させる任務が与えられた。

 劉邦は諸侯を糾合、総勢五十六万で彭城ほうじょうを占拠したが、間もなく項羽の逆撃を受け壊滅。滎陽けいようにまで落ち延びた劉邦のもとに、蕭何は関中かんちゅうの老人や子どもを徴収して送り込み、その勢力を再び盛んなものとした。


 なお蕭何は他にも漢の先祖代々の霊廟を立て、県邑制度を施行するなどの政令を敷き、更に戸籍管理などにより租税を徴収、集めた軍資を常に前線に送り続けた。このため漢軍が軍資に困ることはなかった。



蒙求もうぎゅう

蕭何定律しょうかていりつ 叔孫制禮しゅくそんせいれい

 劉邦のもとでルールを定めたふたり。蕭何が法律を、叔孫通しゅくそんつうが儀礼を制定した、と言うわけだ。つまりこのふたりが漢の屋台骨をつくったとも言える。

 

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