第7話 赤ん坊、勉強する 1

 開いた扉に近づくと、こちら向きに座っていた男性がひょいと顔を上げた。


「おやベティーナ嬢、こんにちは」

「こんにちは。すみません、ルートルフ様がこちらを見たがるので。決してお邪魔しませんので」

「おお、噂のご次男殿ですね」


 二十代後半かと見えるどこかのんびりした雰囲気の男性は、愛想のいい笑顔を向けてきた。

 向かいに座る兄は、ちらとこちらを一度振り向いた後、すぐに机の上での筆記作業に戻っている。石盤を使っての計算練習のようだ。

 そのいくつかの計算問題が終わるまで見守るだけでいい時間なのだろう、男性は気軽な様子で立ち上がって、数歩こちらに寄ってきた。


「お初にお目にかかります、ルートルフ様。ウォルフ様の家庭教師を拝命しております、ニコラウス・ベッセルと申します」


 右手を胸に当てて、大真面目な表情で、紛れもなく僕に向かって礼をしてくる。

 貴族に対する礼儀作法の標準など知らないわけだけど、赤ん坊に対して大げさに過ぎるのではないかと思ってしまう。これがふつうなのか、この先生の性格なのか、どちらだろう。

 はは、とかすかにベティーナの苦笑が漏れかけているところを見ると、後者の可能性大なのかもしれない。


「何だか今日はルート様がしきりとこちらを気にしておいでなものですから、ちょっとだけ覗かせていただければと」

「おお、この年から勉強に興味をお持ちとは、将来が楽しみなお子様ですな。これだけお静かなご様子なら、見学されてもまったく構いませんよ」

「勉強に興味、じゃないと思う」


――そこの兄上、聞こえよがしの独り言は慎むように。


「ウォルフ様も、弟君の応援があればいっそう身が入るでしょう」

「いいんですか?」


 先生に気さくに招かれて、ベティーナは部屋に入っていった。

 かなり広さのある、板敷きの床の部屋だ。確か前にベティーナが『武道部屋』と教えてくれた。奥に木刀らしきものが数本立てられているので、父や兄がそういう剣の稽古などに使っているのだろう。

 今はその広い部屋の入口側の隅に四人くらい囲める机が置かれ、兄と先生が向かい合っている。ベティーナは二人を横から見る位置の椅子に腰を下ろすことになった。

 その膝の上に収まって上体を伸ばすと、机の上が一望できる。

 少し怒ったような顔で黙々と石筆を動かしている兄の手元を見ると、やはり計算練習らしい。数字が読めないので、僕には内容が分からないけど。

 残念、と思いながら先生の手元を見ると、すぐ脇にやや大きな木の板が置かれている。

 大きめの文字がいくつも書き込まれているのだが、注目したのはいちばん上の行だ。

 比較的単純な見た目の文字が、ひいふうみい……合計十種類並んでいる。


――おお!


 もしかして、これが数字?

 初心者用計算テキストの最初の行に数字の見本が並んでいると考えて、まちがいないのではないか。だとすると、順に0~9か、1~10か。

 試しに0~9として兄の手元の計算に当てはめてみると、計算記号なども適当に当たりをつけて、


 21+48=69


 と読めることになりそうだ。合う。

 石盤の他の行の問題や木の板の表記に次々当てはめてみて、まちがいなさそうだ。

 つまりここの世界の数字、文字の形が違うだけで、アラビア数字の十進法表示とほぼ同じと考えられる。

 十種類の数字を覚えれば、ほぼ問題なく使いこなせる、ということになりそうだ。


――やった。数字ゲット!


 無言のまま狂喜している僕の横で。

 計算中の兄を邪魔しない程度の小声で、先生とベティーナは会話を続けていた。


「ベティーナ嬢はその後も、文字の勉強を続けているのですか?」

「はい。自分の時間を使って書く練習をしたり、ウォルフ様に本を貸していただいて読んだり」

「それはいいことです」


 話の様子では、一年ほど前にベティーナも兄と一緒に読み書きを習っていたらしい。

 兄に向学心をつける刺激にもなればと、うちの両親が取り計らって基礎だけ学ばせたということのようだ。


「そのお陰もあってでしょう。今年になってからのウォルフ様の進歩には、目覚ましいものがありますからね」

「ベティーナのせいじゃねえし」


 ぼそり。またどなたかの独り言が聞こえてきた。


「ああ、春の王都での騎士候補生合宿が、とても刺激的だったんですよね」

「おう」


 ベティーナの補足には、力強い頷きが返っていた。


「そうでしたね。いずれにせよ、同年代から刺激を受けるのは、とてもいいことです」


 先生が、ゆったりと頷いている。

 後で聞いた情報をつけ加えておくと。

 貴族の子どもは、通常八~九歳頃から家庭教師をつけてもらうなどをして教育を受け始める。

 兄の場合、しばらく父の多忙、領地の不作、母の死産など、家庭に大問題が降りかかって落ち着かないことが続き、教育開始が少し遅れた。それまでは剣の練習や野山を駆け回るアウトドアライフの好きな子どもだったので、最初は少し座学に馴染まなかった。

 そのためしばらくは座学に集中するための刺激策として、ベティーナを共に学ばせた。さすがに一歳年下の使用人に負けるわけにはいかないと兄は奮起し、両親の狙いは見事に当たったようだ。

 騎士候補生合宿というのは、全国から騎士を目指す九~十歳程度の貴族の子どもを王都に集めて毎年行われる野外合宿だという。十二歳以上対象の貴族学院に入学する前の子どもたちにとって、生まれて初めて他領地の同年代の子どもと接して大きな刺激になる、親たちにも好評の行事らしい。

 ウォルフ兄上にとっては、父やベッセル先生から見ても驚くほど、その後の勉強に目の色が変わるくらいの効果をもたらした、ということだ。


「そういう刺激を得て向上心に目覚めるというのは、本当に得がたい経験です」


 何度も頷いて、先生は笑顔をこちらに向けた。


 そんな会話を聞き流しながら、僕はさっきから数字の解読に夢中になっていた。

 兄が取り組んでいる計算練習は、まだ初級のもののようだ。

 だいたい二桁から三桁の数の足し算と引き算で、数字の読み取りができた後は、僕にも暗算でできてしまう。


――え?


 暗算でできる?

 どういうことだ?

 あまり考えていなかったけど、もしかして僕の頭って、この世界では異常すぎることになっているんじゃないのか。

 それこそ兄の年齢ならともかく、まだ生後六ヶ月の赤ん坊だぞ。

 一瞬背中に冷たいものを感じて、僕は顔を強ばらせていた。


――これは、誰にも知られないようにしよう。


 そんな決心を心に刻んでいるところへ、


「それにしても、弟君にも向学心は受け継がれているのかもしれませんね。さっきからお兄様の勉強の様子に釘づけですよ」


――いや先生、よけいなことに気がつかなくていいから。


 僕がやや焦っていると、その言葉にベティーナが食いついていた。


「そうなんですよ、先生。ルート様はとても優秀なんです。まだ六ヶ月なのに『母様』『兄様』が言えるんですから」

「ほおお」

「もうはいはいはできるし、おしっこは漏らす前に教えてくれるし、ほとんど泣いたりしないお利口さんだし、すごいんです」

「それはすごい。おそらく六ヶ月の赤子としては特筆ものですね」

「そうなんですか?」


 思わずという調子で顔を上げた兄に、先生は頷き返した。


「ご家族が自慢されても不思議はないレベルだと思いますよ」

「ふうん」

「ですよね、ですよね」


 実の家族以上に騒いでいる人が、約一名。

 このまま自慢話の勢いで例の『加護』の件まで口走ってしまうのではないかと案じてしまったが、ベティーナもそこには理性が働いたようだ。

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