第138話 赤ん坊、遠のく

 勢いよく扉を開いて、テティスは廊下へ呼ばわった。


「誰か、ある!」


 遠くから、ばたばたと足音が近づいてきた。

 少し先の角から数人を率いて早足で寄ってくるのは、女官のヨハンナだ。


「ルートルフ様がこの部屋に監禁されていた。こちらの侍女と女官長を呼んでもらいたい」

「な――分かりました」


 驚愕の目を瞠りながら、それでもヨハンナは後ろの若い女たちに指示をした。

 一人近寄ってきて戸口を覗き、さらに目が丸くなる。

 見える範囲でも、牙むく立ち姿のオオカミを前にして、妃と侍女たちが怯え竦んでいるのだ。


「これは――」

「ルートルフ様、ご無事でいらっしゃいましたか」


 ヨハンナの問いに答える暇もなく、女官長が姿を現した。

 その後ろから、赤ん坊車を押したナディーネとシビーラが寄ってくる。

 女官長もすぐにヨハンナに並んで妃室を覗き、驚愕の目を見開いた。


「これは――妃殿下のお部屋が――」

「こうきゅうではんざいおきたら、おうきゅうちょうのちょうさ、はいる?」

「あ、はい――そうなります」


 問いかけると、女官長は喘ぐように答えた。

 判断の落ち着きを与えず、すぐにそこへ言い重ねた。


「ちょうさ、よんで」

「あ、しかし、妃殿下に――」

「おおかみ、なにもなければこのまま、おとなしい。おなかすいたら、わからない」

「は、はいい――」


 慌てて女官長は、早足で去っていった。

 長い時間はかからないはずだ。後宮に異変があった場合、外からの警備の駆けつけに手間がかかるなど、あるはずがない。


――時間をかけられては、困る。


 僕が拘束されていた袋や、割れたガラス窓や、乱闘の跡や、そのまま見てもらわなければならない。

 証言も、僕にしかできない。

 その僕の体力気力、あとどれだけ保つものか、保証のしようもないのだった。

 さんざん乱暴に抱え運ばれたり、投げ転がされたり、赤ん坊にとってはとんでもない仕打ちを受けていた。

 加えて、あの妃との胸糞悪い会話。

 また、かなりの時間『光』照射を続けていた。これは、ぼんやり程度なら長時間も可能なのだが、そこそこ強く決まったリズムでとなると、生まれてこの方経験がない。体力なのか何力なのか分からないが相当消費、ほとんど底をついた感覚なのだ。

 ナディーネが押してきた車に収まり、ぐて、と脱力。今にも意識が薄れていきそうだ。


 間もなく、荒々しい集団の足音が近づいてきた。

 見慣れた王宮衛兵の身なりの男たちが、七人いる。先頭の男は先日襲撃を受けた後指示をしていた、小隊長と名乗っていた人だ。

 僕が誘拐された件はすでにそちらまで伝わっていたらしく、無事を尋ねかけられた。

 しかし、儀礼上のやりとりをしている余裕もない。

 ほとんど他から口を挟むゆとりも与えず、僕は一連の経緯を説明した。幸い記憶力はある方なので、妃や周囲の者の発言もほぼそのまま伝えることができる。

 語り終えて、敷き布の上に沈む。


「あとは、まかせた」

「はい、了解しました」


 こちらも驚愕を隠せないまま、小隊長は部下を率いて入室していく。

 声をかけると、すぐにザムは軽い足どりでこちらへ出てきた。

 とたん、室内から金切り声が響き出してきた。


「何なのですか? 妃の部屋にこな狼藉、直ちにあの赤子を捕らえなさい!」


 もう反論する気力もない。

 子爵次男の証言より妃殿下の言い分が尊重されるというなら、そういうものだと思うしかないだろう。

 そんなことを思い漂わせながら、柔らかな布の中にますます全身が沈み。

 少しずつ、意識が遠のいていった。



 目を覚ますと。

 明るい室内、だった。

 僕は仰向けに寝せられて。

 視線を上げると、頭側から見下ろす馴染みの顔があった。


「にゅあ……」

「目覚めたか、ルートルフ」


 全身力が入らず、妙な声だけを漏らしてしまう。

 そこへたちまち父の顔が覆い近づき、頬に掌が当てられる。


「何処か、痛くないか?」

「ん……」


 無精髭の伸びた必死の形相で問いかけられ、ぼんやり全身に意識を回す。

 頬に小さな痛み。頭の奥と筋肉のあちこちに何とも言えない鈍痛が潜む感覚があるが、緊急性のようなものは感じられない。


「……だいじょぶ」

「そうか、よかった」

「ちーうえ……」

「動くな。まだ安静にしていろ」


 寝返りを打とうとして、父の手に押さえられた。

 その感触で気がつく。寝せられているのは、ベッドではない。寝具を敷くなどして寝心地はよくしてあるが、どうもよく昼寝に使っている執務室の長椅子のようだ。

 長椅子で横向きに寝かされ、胸から下にかけ布。頭の上に父が腰かけている、という体勢らしい。

 視線を回すと、何となくはっきり焦点を結ばないが、室内に何人か人がいる。

 足元近くにテティスが立ち、床にザムが伏せている。

 机などの佇まいからして、自分の執務室でまちがいないようだ。

 ふわふわと首を横に動かしていると、父の手が額を覆った。


「無理して動くな。熱があるのだ」

「そ……」

「高熱を出して、二日間目覚めなかったのだぞ」

「へ?」


――二日間?


 さすがに、それには驚く。

 肉体疲労、心労、いろいろが重なって気を失い、僕は熱を出したまま眠り続けていたらしい。

 そのまま頭を撫でながら、父が説明してくれた。

 妃室を脱出してその後、僕は意識をなくしてしまった。

 連絡を受けた父は、後宮には入れない。

 必死の思いで懇願して、僕を執務室に運んでもらった。

 今回のようなことがあっては、後宮の部屋で安全が保証されるとは言い難い。何よりもそっちでは、父が傍につけない。

 父の屋敷に運ぶことも検討したが、僕をあまり動かさない方がいいという判断だった。

 加えて、子爵邸でも安全だとは断言できない。

 最も極端な話、第四妃の実家である伯爵が兵を興して襲ってきたとしたら、子爵邸の警備では持ち堪えられない。

 まず考えようもない極論だが、事件直後の第四妃の処遇が決まらない段階では、そこまで危惧せざるを得なかったらしい。

 以前の検討と順序が変わったことになるが、後宮が安心できなくなったとすると、僕の安全が確保できる最善は執務室ということになるのだ。

 さすがに、伯爵領兵が王宮内まで攻め込んでくることはあり得ない。後宮には入れない、男の護衛をつけることができる。何より、父が頻繁に顔を出すことができる。


「……なるほろ」

「医者の話では、意識が戻りさえすれば、後はしばらく安静にしていれば熱も引くだろうということだ」

「……ん」


 もう一度室内を見回すと。

 少し、視界がはっきりしてきたようだ。

 ヴァルターとナディーネ、メヒティルトが、いつもの席から心配そうに覗き込んでいる。今にも駆け寄りたいところを、子爵の前なので抑えているという様子だ。

 訊くと、みんな一緒に移動してきて、この二晩、テティスと侍女一人が寝ずに付き添ってくれていたらしい。

 最初の夜はナディーネが、昨夜はカティンカが不寝番をして、朝からは交代で後宮に休みに行っている。

 今は、二夜が明けた風の日の午前中ということだ。

 なお、シビーラには第二妃の部屋に報告に行かせ、そのまま留まらせている。

 リーゼルはこの二日間、家に待機させている。

 あと室内には父の後ろに控えるヘルフリートの他、男の護衛二人が戸口と窓際に立っていた。顔見知りの、マティアスとハラルドだ。僕に馴染みがあるということで、父が連れてきているらしい。

 納得して、僕は目を閉じた。

 父が膝上に頭を乗せてくれ、ゆっくりそれに頬を寄せる。

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