第137話 赤ん坊、甚振られる

 妃たちの様子を窺いながら、袋の口から片手を出して頬に触れてみた。

 さっきからひりひりじんじんしているそこには滴りが触れ、指先がわずかながら赤く染まる。

 大騒ぎするほどの怪我でないことはまちがいないが。目の前の妃も侍女たちも、小さな赤ん坊の出血を目にしながら平然としているわけだ。

 さっきからの脅しが冗談などではないと、思わざるを得ない。


「む」


 戸口近くに立つ護衛が、ふと後ろに顔を向けた。


「廊下に、足音がいくつも聞こえてきています」

「見つけて、騒ぎが始まったのでしょうね」

「うむ」


 護衛の報告に、妃は傍の侍女と頷きを交わしている。

 その横目が、じろりとこちらに向けられた。


「大声を出すでないぞ。捻り殺すと申すは、ただの脅しではない」

「……ん」


 言われなくとも、命を賭してまで声を発するつもりはなかった。

 もともとここらの居室の扉は厚く、ちょっとくらいの大声は外まで聞こえないのだ。閉じられている間は、何をしても体力を削るだけの無駄に終わるしかないだろう。

 やるとしたら、女官辺りが捜索の過程で訪ねてきた機を狙って声を出すことだろうが、ここの人たちがそんな隙を許すとは到底考えられない。


――大人しくしてみせていれば、しばらくはこのまま放置してもらえるか。


 今の僕は、窓近くの床の上、半身以上を麻袋に包まれて座り込んだ格好だ。

 快適な状態とは到底言い難いが、少なくとも投げ飛ばされたり蹴飛ばされたりの手足がすぐに届かないという程度には、安堵できる。

 さっき僕を投げ転がした侍女が、二歩程度離れて立ちはだかっている。この人が一応、僕の動きを牽制する役目を担っているのだろう。

 僕にとって、『光』の攻撃手段だけは残されているわけだが。

 それも大勢を同時に相手にできるものではない。一人二人を倒したとしても続く攻撃が間に合わないうちに接近を許してしまえば、それでもう終わりになる。

 使うとしても最終的、いよいよ生命の危機が危ぶまれる場面での手段だろう。

 今この部屋に見えているのは妃を含めて六人だが、まだ奥に控えている人員もいるんだろうな、と考える。


「それにしても妙に落ち着いて見える、やはり気味の悪い赤子じゃの」

「御意にございます」


 隣の侍女との会話だが、僕に聞かせるつもりもあるらしい音量だ。

 何とはなしに、妃の視線がちらちらとこちらに流されたりしている。


「こな気味の悪いもの、長く置きたくもないの。死体にしてすぐに運び出しは難しいにしても、何とか早める手立てはないものか」

「残飯ゴミと紛らわして出すには、いかに赤子といえども大きすぎますね」

「死体を分かりにくくするには、骨になるまで焼いてしまうか、細かく切り刻むか、叩き潰すか、と聞いたことがあります」


 薄笑いの表情での妃の問いかけに、こちらも笑い混じりに二人の侍女が応じている。

 何となくだが、すでに以前話した内容を、聞こえよがしに再現しているのではないかという感じを受けてしまう。


「骨まで焼くのはここでは難しいですからね。骨も肉も判別できないまで叩き潰して、残飯に混ぜて運び出すのがよいのではないでしょうか。赤子の大きさなら、少しずつ分けても二三日もかければ始末しきれるのではないかと」

「大人の死体なら難義ですが、この大きさなら皆で協力すれば、潰すのもすぐに済むのではないでしょうか」

「うむ」


 なかなかもの凄い、胸糞悪くなるような談義をしている。

 何処まで本気なのかは定かでないが、とりあえずこちらを精神的に甚振るのが目的なのだろう。


――高貴な方とは思えない、品のない内容という気がするけど。


「皆の働きに期待しようかの。なかなかに小気味のよい作業になりそうじゃ」

「御意にございます」


 本気で言っているとは思いたくないけど。


――どういう感覚しているんだ、この人たち。


 そろそろ真面目に耳を傾けるのもやめようか、と考える。

 耳を向ける先を変えると。扉の向こうの足音の往き来が、ここまでかすかに聞こえるようになっていた。

 捜索のため部屋の中まで踏み込んでくることはあり得ないが、戸口を訪ねて何か異変はないか程度の質問をする者はいるかもしれない。

 妃と侍女がひそひそ話を始めたのは、そうした訪問者に備えてそろそろ僕を奥に隠そうとでもいう協議か。

 思わずじりっと、窓際に身を寄せてしまう。

 じろりと視線を流し、妃は軽く口角を持ち上げた。


「余計なことをしようとは思わぬようにの。大人しくしていれば、飢えて力尽きるまでは置いてやろう。後で潰すにも、胃腸はらわたの中身がない方が面倒少ないと聞くのでな」


――わあ、物凄い鬼畜な理由だこと。


「それでは、奥の物入れに押し込めることとしましょうか」

「うむ、それがよかろう」


 妃が頷きかけ、前に立つ侍女が動きを見せた。

 こちらの首元、袋の口を掴んで、引っ張り上げようと力がこもる。


「むぐ――」

「まだ縊り殺すでないぞ」

「はい、かしこまりました」


 主の命に、素直な声は返るが。

 首元にこめられた力に、今にも息が詰まりそうだ。

 ぐいと引き上げられ、足が床を離れ、かかる。

 一瞬、目の前が白く霞みかけた、とき。


 ガシャシャシャーーーーン!


 すぐ脇から、大音響が響き渡った。

 驚いてだろう、掴む手が緩み、僕は床に崩れ落ちる。

 刹那、目の端に白銀のものが走り、手の主を弾き飛ばすのが見えた。


「な、何じゃ――」

「きゃあーーー!」

「お、オオカミ?」


 一撃で窓ガラスを破壊して、白銀の獣が躍り込んできたのだ。

 続いてその割れた窓枠をくぐり、防具姿の長身が駆け込んできた。


「く、曲者――」

「出会え!」


 侍女たちが悲鳴を上げ、戸口と横手にいた二人の護衛が抜刀しながら駆け寄ってくる。

 オオカミよりも素速く脇を抜け、長身の剣が瞬く間に二人の抜き身を弾き飛ばした。

 返す刀で、護衛たちの腹が薙ぎ払われる。呆気なく、二人ともその場に昏倒していった。


「ルートルフ様、ご無事ですか?」

「ん」


 鞘ごとの剣を片手にしたまま、テティスが屈み込んできた。

 慌ただしい手つきで袋の口が緩められる。


「何と、このような。お労しい――」

「ありがと」


 たちまち袋を抜け、僕は逞しい護衛の腕に抱き上げられていた。

 向かいではソファに腰を抜かした様子の妃と呆然と立ちつくす侍女たちが、目を丸くしている。


「な、何じゃ、其方は――」

「我が主を、返してもらう」


 高貴な相手の声にも昂然と受け返し、テティスは僕を揺すり抱き直した。

 その横手に進み出て、ザムがうう、と唸りかける。


「なな、何じゃ、この獣――」

「動かぬように。じっとしていればこのオオカミ、何もせぬ」


 とは言いながらも、ザムは唸りながら牙を覗かせ、部屋のこちら半分に誰も来られないように立ちはだかっている形だ。

 護衛二人が倒れ気を失っている他は、戸口まで障害なく床が続いている。

「頼んだぞ、ザム」と後を任せて、テティスは扉へ向けて歩き出した。


「遅くなって申し訳ありませぬ」

「や、たすかった。ありがと」

「合図に気がついたのが、つい先程でした」

「だろね」


 以前警護を見直した折、この護衛と侍女たちと打ち合わせて、非常の際の合図を決めていたのだ。

 僕はもちろん、侍女たちももし監禁されたり身動きできなくなったりした際、何とかでもできるように、外に伝える方法を共有したものだ。

 音でも光でもいい。「短短短長長長短短短」のリズムをくり返す。

 これを僕は、さっき窓際に寄ってから外へ向けて『光』で続けていた。

 頼りのテティスとザムは、裏の森へ出かけている。気を失っていた侍女たちが目を覚ませば、まちがいなく誰かがそちらに報せに走る。

 森からの帰りは必ずこの妃室の下を通るのだから、合図の『光』に気がついてもらえる望みは大きいのだ。

 それにしても。

 ザムが助走をつければこの二階のベランダまで跳んで上がれるのは知っていたけど、テティスも続いてこられるとは思わなかった。


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