第二章 赤ん坊の波瀾万丈

第1話 赤ん坊、目を覚ます

 ある朝、目覚めると。

 僕は、分裂していた。

 ――――。


――いや、何言ってるか分からない。


 落ち着いて、ことの次第を辿ってみよう。

 ついさっき、僕は熟睡から目覚めた。――うん、問題ない。

 窓の隙間から日が射し込んで、部屋の中はほんのり明るい。外から、小鳥の囀りが聞こえる。――うん、いつも通りの朝だ。

 右脇を下に、横向きに寝ていた両手が、胸の前で空しく丸められている。抱きつくものがそこになく、物足りなく。――うん、しかたない。

 ほとんどひと冬の間兄と同じベッドに寝て、その腕を抱えて眠るのが習慣になっていた。春を迎えて暖かくなってきたことから、三日前から自分のベッドでの独り寝に戻っていたのだ。まだ新たな環境に慣れないのも、無理はない。

 問題は。

 前までの前面の温みが失われているのに、この朝は背中に何か温かなものが貼りついているのだ。いつもの習慣を変えて兄に背を向ける格好になってしまったかと、うっかり思い込んでしまいそうなほどに。

 しかしそんな可能性はすぐに振り払えてしまうほど、背中の感触は違っている。

 温かい、のは確かだけど。妙に小さい。紛れもない生き物の息遣いが、近い。異様なほど、湿っている。

 そう思い。何とも不気味な、恐怖めいたものさえ感じながら。

 身体を捻って、肩越しに振り向いた。

 すると。

 僕が、分裂していた。


――いやいや。


 もちろん、勘違いだ。

 それでもそんな勘違いをするのも無理なく思えるほど、想定外に。

 そこに見つけたのだ。

 僕とそれほど変わらない大きさの、赤ん坊を。


 ぴったり背中に貼りつき。はむはむと肩にしゃぶりつき。その部分に何とも異様な湿りが染み広がっている。

 驚きに僕が身をよじると、あっさりその子は振りほどかれ、ことんと仰向けに転がった。

 しっかり目を閉じたその顔に、「ふえ……」と不満のむずかりが歪み広がりかけた。

 あわてて、僕はその小さな身体を抱き寄せ直す。

 改めて僕の湿った左肩に顔をひっつけて。はむはむとその子は寝間着の布地をしゃぶり出した。

「むうう……」と満足げな深い息が漏れてきた。


――何だ、これは?


 すっかり身も心も目覚めてしまい、頭の中をクエスチョンマークが埋め尽くす。


――誰か、説明、プリーズ。


 見回しても、朝早い部屋に、誰もいない。

 溢れんばかりの困惑の中、しかし少しでも動くとこの子が泣き出しそうな予感で、身を起こすこともできない。

 大声を上げて人を呼ぶ気にも、とうていなれない。

 しかたなく僕にできるのは、目の前に眠り続ける小さな赤ん坊を、観察することだけだった。

 さっきは、僕とそれほど変わらない、と思ったけど。改めて見直すと、少し小さいようだ。

 僕が生後一年を過ぎたばかりなのだから、おそらくは生後半年から一年の間といったところか。

 着せられた寝間着がピンク色なところからすると、女の子なのかもしれない。

 とはいえまちがいなく、ランセルとウェスタの娘のカーリンではない。

 まだまばらな頭髪は、黒に近い焦茶色の僕のものよりかなり薄い色に見える。生え揃ったら綺麗なブロンドになるのかも、と何となく思う。


 しかし。それにしても、何にしても。


――昨夜寝るとき、まちがいなくこんな赤ん坊、いなかったよな。


 その記憶で誤りがなければ、考えられる可能性は三つくらいだろうか。


1 僕が眠っている間に、誰かが連れてきた。

2 どこか別の場所から、この赤ん坊が転移してきた。

3 この赤ん坊が存在するパラレルワールドに、僕が転移した。


 ……いや、常識的に考えて、1しかあり得ないんだろうけど。

 領主の息子たる僕の寝床に、それも夜中になって、よその赤ん坊を並べて寝かしつけるなどという事態。何をどうしたらそんなことが起き得るのか、想像もつかないのだ。

 まさかこの子が一人で忍び込んできたはずはないし、誰かがこっそり侵入して置いていったことも考えられない。

 二階廊下には今日も護衛のテティスが不寝番をしているし、部屋の窓はしっかり閉じて内側から閂がかかっている。

 とすると残る可能性は、家の者が承知の上でこの子を連れてきた、ということだけだけど。くり返し、思う。


――何をどうしたら、そんなことが起き得る?


 僕の拙い想像力では、及ぶべくもないようだ。


 他にどうしようもなく、つらつら考えるうち。

 僕の肩口の寝間着は、はむはむとしゃぶられ続け。

 温い湿りとこそばゆい小さな口の感触が、ますます広がっていた。


――僕の肩、食べられてしまうんじゃないだろうか。


 脈絡なく思いながら、それもあり得ないことは理解していた。

 しゃぶり甘噛みをするような赤ん坊の口に、歯の存在もないようなのだ。

 僕でさえ、最近ようやく前歯が上下二本ずつ生えてきたばかりだ。

 もっと小さいこの子に、まだ歯がなくても不思議はない。

 しかし、甘噛みとしゃぶりはもごもごと止まらない。

 こんなところ、何かおいしいのだろうか、と疑問を持ってしまう。


 とにかくもそんな益体のないことばかり思い続けているのは、他にどうしようもないからだった。

 動けない。声も出せない。

 頭がはっきり目覚めてしまって、寝直すこともできない。

 何とも情けない状況のまま、僕にはただ救助を待つことしかできないのだ。


 その救助が現れるまで、ずいぶん時間が経過した、気がした。

 実際にはそんな、長時間ではなかったのかもしれないけど。


「お早うございまーす。あ、ルート様、もうお目覚めでしたあ?」


 扉を開いて覗き込むベティーナは、いつも通常営業の、元気いっぱい笑顔満開だった。


「ああよかったあ。仲よくお休みできたみたいですねえ」


 布団から覗く赤ん坊二人の顔を見て、嬉しそうに両手を合わせる。


――仲よくと言うか、何と言うか。

  ……他にどうしろと?


 しかしまあこれで、少なくともベティーナはこの赤ん坊の出現に関与していることが分かった。

 さっきの三つの可能性のうち、2はないことになりそうだ。


 嬉しそうに掛け布団を捲り、ますます子守りの瞳が輝いた。


「まあ、仲よくくっついて。やっぱりご兄妹きょうだいですねえ」


――…………

  …………

  …………

  はああ?


 思い切り、目を丸くして。

 内心、僕は絶叫を上げていた。


――何じゃ、そりゃあ!

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