第2話 赤ん坊、泣かれる

――何で、僕に妹がいるんだ?


 先に考えた三つの可能性のうち、思わず本気で3を信じたくなってきてしまった。

 言うまでもなく、昨日までの僕に妹などいなかった。

 そもそも生後一年を過ぎたばかりの子どもに、どうやったら生後半年程度の弟妹ができるというのだ?

 あり得ない。とすると、残されているのは、それがあり得るパラレルワールドに僕が迷い込んだ、という可能性だけなのではないか。

 訳分からなくなって。

 精神衛生のために、僕は思考を停止した。

 と言うより、続いて起きた事態の中、ゆっくり考える余裕が吹っ飛んでいた。


 捲った布団に手を入れて、ベティーナが僕の隣の妹(?)を抱き上げる。

 と同時に、妹(?)は火がついたように泣き出していた。


「ふぎゃあああーーー」

「あらあら、どうちましたあ、ミリッツァ様? ご機嫌斜めですかあ? あ、おしめですかあ?」


 ベッドの足先の方へ移動して、ベティーナは赤ん坊のおむつ交換を始めていた。

 その間も、妹(?)はけたたましい声で泣き続けている。

 ほとんど息継ぎの間も感じとれない、酸素不足で息絶えが案じられそうな勢いだ。


「ふぎゃあああーーーーー」

「はいはい、ミリッツァ様、換え終わりましたよお、ほら気持ちいいでしょう?」

「ぎゃああああーーーーー」

「あらあらあらあら、どうしましょう」


 慌てて抱き上げ、両手足をばたばたして泣き続ける赤ん坊の背中をぽんぽんしながら、ベティーナは部屋の中を歩き回った。

 何とか上体を起こしておっちゃんこしている僕に、情けない視線を向けてくる。

 ……ちなみに『おっちゃんこ』というのは、『記憶』が囁きかけてきたどこぞの地方の方言で『足を前に出して座る』という意味だそうな。……いや、なんでわざわざそんなマイナーな表現を教えてくる?


「ごめんなさいごめんなさい、ルート様。少し、お着替え待っててくださいね。ああ、どうしよう」

「ぎゃああああーーーーー」

「ああ、ああ、もう――」


 別にそれほど慌てる必要もない、赤ん坊が泣き止むまで待てばいいという気はするのだが。

 すっかりベティーナは、パニック状態になっているようだ。

 泣き疲れの気配も見せないミリッツァ(?)を抱いたまま、ベッドの僕に寄ってくる。


「とにかく先に、ルート様のお着替えしてしまいましょうね」

「ぎゃああああーーーーー」


 一度僕の隣、布団の上に下ろされると、ミリッツァは自由になった手足をひとしきり振り回して、さらに泣き声を張り上げた。

 それからころんと寝返り、横を向いて、僕の横腹に抱きついてくる。

 次の瞬間。


「ぐしゅう……」

「え?」

「へ?」


 まだ嗚咽は続けながらも、僕の腹に顔を押しつけてミリッツァは泣き声を収めてしまっていた。

 目を丸くして、ベティーナは僕と困惑の顔を見合わせていた。


「泣き止んじゃいましたねえ」

「ん」


 いや、こんな、ベティーナと会話が成立するのもおかしな話なわけだけど。

 思わず、僕は相鎚めいた声を返してしまっていた。


「とにかく今のうち。ルート様のお着替え、してしまいましょう」


 僕に抱きつくミリッツァの扱いに苦労しながらも、ベティーナは何とか務めを果たしてくれた。

 何度かわずかに引き離されてもそのたびすぐに抱きつき直し、すごい根性でミリッツァは僕の上着の裾にしゃぶりついている。

 ベージュの木綿地に、たちまちよだれの染みが広がってくる。


――勘弁してほしい……。


 という気は、しないでもないけど。

 さっきまでの屋敷中を震わせそうな泣き叫びを思うと、この収まりを甘受するしかない、という気になってくる。

 僕以上に、ベティーナにその思いは強いようだった。

 着替えの終わった僕と離れない妹(?)を、苦労して一緒に抱き上げていた。

 右腕に僕、左腕にミリッツァを抱いて、よいしょと身を起こす。

 その間に、ミリッツァのしゃぶりつきは僕の肩口に移っていた。


「じゃあ、行きましょうねえ。旦那様と奥様、きっとお待ちですよお」


 よいしょよいしょと二人を運び、苦労して戸を開き、廊下へ。

 ベティーナの小さな身体で、赤ん坊二人の運搬は重労働、という気がする。

 気遣いながら、今のベティーナの独り言が気になった。

 旦那様と奥様?

 昨夜僕が寝る前に、父の姿はなかった。

 そうするとつまり、僕が寝た後で、王都から到着したというわけか。


――何だか少し、状況が分かってきた。


 よいしょよいしょと足を運び、ベティーナは廊下を進む。

 目の前に、下り階段が近づいてくる。


――大丈夫か?


 まさかとは思うけど。階段途中で足をもつらせ、転げ落ちる未来が幻視される。

 まさか、まさかとは思うけど。

 階段下へ向けて、僕は首を伸ばした。


「ざむ」


 呼びかけると、「ウォン」と応えて、武道部屋の開いた戸口から白銀色のオオカミが駆け出してきた。

 たちまちの疾走で、階段を昇ってくる。

 ひととき困惑で立ちすくんでいたが、ベティーナはすぐに状況を飲み込んだようだ。


「ご苦労様、ザム。お願いね」


 しゃがみ込んだザムの背中に、僕を跨がらせる。

 離れようとしないミリッツァは前に座らせて、僕が抱きかかえた。

 兄を乗せて走ることもできるザムに、赤ん坊二人程度、軽いものだ。

 ゆっくり、確かな足どりで階段を下ってくれた。

 ミリッツァはというと、白銀の首をもふもふ撫でて、きゃっきゃとご機嫌いっぱいの様子だ。

 初対面だろうオオカミに、警戒のかけらも見せない。もしかすると、カーリンに続いて人類史上二番目の存在ということになるのかもしれない。

 いや、完全に初見だとすると、カーリン以上に度胸が据わっているのかも。


 階段を降りると、左に折れて食堂へ。

 話の通り、父母と兄がもうテーブルに着いていた。

 ただ、いつもと様子が違う。

 父と母の間に冷えた沈黙が漂い、兄も妙に息を潜めている、というような。

「お早うございます」とザムを連れたベティーナが入っていくと、父が援軍を得たと言わんばかりの笑顔を向けてきた。


「おお、来たか、ルートルフ。さあ、こっちへおいで」


 いかにも待ちかねたという手つきで、ザムの背から僕を抱き上げる。

「わう」と声を上げながら、すぐ横で一人残されたミリッツァは泣き出しはしなかった。ザムの背に座ったまま、ぱたぱたと父の上着裾に触れている。

 僕は膝の上に立たされて、間近に父と顔を合わせた。


「昨夜はもうルートルフは寝た後だったからな。久しぶりだな。また大きくなったな」


 呼びかけては、腋に入れた両手で僕を揺すり立てる。

 いつもながらの子煩悩の発露だけど、何だかどこか、気が急いているとかそんな感じだ。

 少しためらいを見せてから、兄が話しかけた。


「ルートはもう、十歩以上歩けるようになったのですよ、父上」

「おお、そうか。偉いな、ルートルフは」


――十五歩です、兄上。


 その辺は正確にしてほしい、と思いながら。

 もしここで口に出せたとしても何かためらってしまう、そんな空気。

 父の視線は、ちらちらと横手の母を窺っているようなのだ。

 その何度目かの横目を受けて。はああ、と母は深い息をついた。


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