第3話 赤ん坊、父を見送る
「分かりました。その子は、ここに置いて構いません」
「……済まぬ」
「ここで育てるからには、他からとやかく言われないようにしなければなりません。皆も、この子についてはウォルフやルートルフと変わらない扱いをしてください。特にベティーナとウェスタには手間をかけますが、よろしくお願いします」
「はい」
「かしこまりました」
ほとんど父の方に目を向けず、母は使用人たちを見回して告げた。
ベティーナとウェスタが頷き、部屋の隅でランセルとヘンリック、イズベルガが、戸口近くでテティスとウィクトルが、了解の礼をしている。
もう一度見回して、「ただ――」と、母は続けた。
「申し訳ないけれど、一つだけ。なるべく私の目には触れないように、ということは気をつけてください」
「は」
ヘンリックがわずかに小声を漏らし、他の者たちはただ無言で、もう一度頭を下げる。
そこへ、父も言葉を続けた。
「よろしく、頼む」
ここへ来て、僕にも事情が察せられてきた。と言うより、部屋を出る辺りから予想し始めていたことが事実らしいと、確信が持ててきた。
今までその存在も知らなかった、月違い程度の差の妹。
そんなことがあり得る、わずかな可能性を思いついていた。
つまり、父が母以外の女性に産ませた子ども、だ。
この世界、特に貴族にとって、複数の夫人を娶ることは別に珍しくもないらしい。
正式な夫人以外と子どもを設けるのも、何ら不思議はないようだ。
むしろ子どもはある程度人数がいる方が、跡継ぎの候補、他の貴族との縁結びの点で、有利なくらいだ。
こうして父が突然ミリッツァを連れてきたのは、おそらく実の母の方に何らかの事情が生じたということなのだろう。
男爵の実子と公にして育てる上で、これも何ら不思議はない。
ただ一つ引っかかるのは、愛妻家子煩悩として知られる父が隠れて子をなしていた、その事実が意外だ、ということだけだろう。
ここに集う使用人一同の様子がいつになくぎこちないのは、誰一人このことについて知らされていなかった、ということなのではないか。まあもちろんこの空気のいちばんの原因は、母の不興のせいだろうが。
母が特に二人の名を挙げたのは、ベティーナには当面僕と二人分の子守りをしてもらうこと、ウェスタには完全に離乳食に移った僕と入れ替わりにミリッツァに乳を与えてほしい、ということのようだ。
不承不承ながら、母もしっかり家の中の体制に気を回しているらしい。
ランセルが、父母と兄の朝食を運んできた。
「では、頼む」と、父が僕をベティーナに渡す。
そのまま食事に入ろうとする父と母に、「あの……」とベティーナはためらいながら声をかけた。
「その、一つだけ、問題が……」
「何だ?」
「ミリッツァ様、ルート様の傍を離れようとなされないんです」
「……どういうことだ?」
「その、つまり……」
言い淀み、ベティーナは僕を父の膝に戻した。
それから、傍らのザムの背からミリッツァを抱き上げる。
そうして、二歩ほどそこから離れる、と。
「ふぎゃあああーーーーー」
ミリッツァの絶叫が張り上げられたのだ。
手足をばたばた、僕に向けて精一杯手を伸ばして。
それまで合わせようとしていなかった父と母の視線が、思わずのように向き合った。
「どういうことです?」
「さっき聞こえた二階の騒ぎは、これか?」
「はい。お二人仲よく布団の中で寄り添っていたので、安心したんですけど。こうしてちょっと離しただけで、ミリッツァ様が泣き止まなくなるんですう」
ベティーナが一歩戻ると、絶叫は止んでぐすぐすと小さな手が僕の肩に触れてくる。
「なんと……」
「でも」目を丸くして、兄が呻いた。「ルートとこの子、初対面ですよね? そんな、仲よくなるとか懐くとか、暇もなかったんじゃ……」
「そうなんですう。だからわたしも、訳分かんないんですう」
母の脇にいたイズベルガが、首を傾げた。
「ミリッツァ様にとって、突然環境が変わって戸惑っているということではないでしょうか。これ以上訳の分からないことになるのが不安で、朝起きたとき傍にいたルートルフ様に必死に縋りついている、といったような」
もごもごしゃぶりついたり匂いを嗅いだりしている様子からすると、お気に入りの毛布とかぬいぐるみとかと同じ認識、という気もするのだけど。
「まあ……分かった」額に掌を当てて、父は唸った。「とにかくしばらくは、二人を離さないようにしてやってくれ」
「はいい」
頭を下げて、ベティーナは僕とミリッツァをザムの上に戻した。
お腹の前に抱いてやると、ミリッツァは「はうわう」と声を漏らして上機嫌に戻っている。何とも、大人にも見習うことを勧めたくなるような、見事な気持ちの切り替えぶりだ。
両親と兄は食事を始め、僕とミリッツァは食堂の隅へ。僕はベティーナに離乳食を食べさせてもらい、ミリッツァはウェスタから乳をもらう。
本来なら僕も食卓について食事の真似事をするのが常なのだが、今はミリッツァから離れられないという事情だ。
食卓から聞こえてくる会話の様子では、父はこの後すぐに王都にとんぼ返りの予定らしい。
「申し訳ないが、仕事が詰まっている中、宰相に無理を言って出てきたのでな」
「分かりました。帰って、仕事にお励みください」
あっさり妻に切り返されて、やや閉口の顔になり。
突然思い出したという態で、父は逆側の兄を見た。
「そうだ、ウォルフとヘンリックに伝えておくことがあった。近いうち、アドラー侯爵領から荷物が届くはずだ」
「アドラー侯爵――騎士団長の領地から、ですか」
「うむ。先月来いろいろ話して、向こうの領地でも栽培小屋での野菜栽培と春からのゴロイモの植えつけに目処がついてきたのでな。替わりにキマメの在庫が余剰になりそうだというので、安く譲ってもらうことになった」
「ああ、キマメについては父上も、一度こちらでの栽培を試してみたいと仰ってましたね」
「うむ。いや、この領地が今のように持ち直す前の、苦肉の策としての思いつきだったのだがな。今こちらではそこまで必要はないと言えるのだが、別の事情がある。新しく賜った、旧ディミタル男爵領な」
「ああ、はい」
「一度しっかり視察に出向いて、考慮しなければならないのだが。あちらも、こっちと同様に白小麦の収穫は頭打ちで、納税にも苦労している状況らしい。別の作物を増やすべきなのだがな、ヘルフリートと話して、領全体として考えるとこちらとは別の作物の導入を検討した方がいいという結論になった。黒小麦やゴロイモの生育もできるのだろうが、もし今年の気候の具合でこれらが不作になる状況になったら、領全土が共倒れだからな」
「ああ、だから向こうでは、キマメの導入を検討したいと?」
「騎士団長の話では、ゴロイモなどよりさらに冷害に強いらしい。ただ問題は、軍隊の兵糧や民衆の非常食に使われるのがせいぜいで、食用としての価値が高くないことだ。今のままで栽培を始めても、労力に見合った対価が得られる保証がない。その意味では、少し前までの黒小麦やゴロイモと似た状況だな」
「つまり、あれらと同じように、新しい価値を生み出せれば?」
「うむ、虫のいい期待ではあるのだが。あっちは古文書で近いものを見つけたと言ったか? 同じように何かないか、調べてみてくれぬか。なくて当たり前、見つかれば幸い、という感覚で構わない」
「はあ、はい、分かりました。調べたり試したり、してみます。本当に、何か当たりを引く保証はまったくありませんが」
「それで構わぬ。頼む」
「はい」
食事の後、本当に父は慌ただしく出立していった。連れてきた二名の護衛とともに馬車に乗り込み、その後ろ姿が瞬く間に遠ざかっていく。
ミリッツァとザムに乗ってそれを見送った僕は、兄とともに邸内に戻った。
この見送りに母が出てこなかったのは、僕が知る限り初めてだ。
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