第11話 赤ん坊、話す

 夜が更けて、僕を寝かしつけたベティーナがそっと部屋を出ていく。

 奥の自室の扉が閉まり、静まるのを待って、僕はもぞもぞと動き出した。

 床に滑り下り、ドアへ向けて匍匐前進。布紐でのドアノブ操作は、前回よりうまくいった。

 廊下へ出て、扉を二つ数える。その木の板の下からは、中の灯りが漏れ出ていた。

 少し息を整えてから。僕はこつんと、ドア板に軽く頭を打ちつけた。

 一呼吸、二呼吸。

 ゆっくり扉が開かれる。


「…………」


 立ち塞がる兄は、黙って僕を見下ろしていた。

 驚いた様子もなく、まるでこの訪問を予想していたみたいに。

 やがて身を屈めて、よいしょと僕を抱き上げる。

 扉を閉じて、ゆっくり僕をベッドの上に座らせる。

 それから、いつもの自分の位置なのだろう、机の前の椅子に腰かけて、ふうう、と長く息を吐き出していた。


「どうにも信じられない……自分でも馬鹿かと思ってしまうんだけど」


 独り言のような呟きを漏らして、僕に向き直る。


「もしかして、本当に……お前もしかして、俺が話していること、理解しているのか?」


 黙って、そのまま兄から視線を離さない。


「何にしたって、信じられないことばかり、なんだ。もうどんな奇跡でも信じて、すがりたい気分なんだが。今日のおかしな出来事も、もしかしてお前、何か分かっているのか?」


 ゆっくり。

 しばらく間を置いて。

 ゆっくり、僕は頷いた。


 はああーーー

 と、兄は長々とした息を吐き出した。


「教えてくれよ。何なんだ? 今日の出来事、あの野菜、不思議な光とか」

「……カゴ」


 やっぱり、うまく口は動かない。

 だからどうしても、短い言葉だけになる。

 それでも。

 僕の意味ある言葉を誰かが聞くのは初めて、だ。

 目を丸くして、兄は数秒黙り込んだ。

 もごもごと口を動かし、何を問い返したらいいか分からない、といった顔で何度も瞬きをし。


「カゴ? って、あの加護か?」

「『ひかり』のカゴ」

「『光』? ――って、お前の加護が『光』?」

「ん」

「お前の加護の『光』が、あの小屋の中を照らしてた? いや、ないだろ、それ。お前があそこにいないのに」

「できりゅ」

「え?」

「しゅこしはなれても……」


 加護の『光』は、自分を離れた頭上からでも照らせるのだ。

 その例を、兄も頭に描いたのだろう。

 少し考え、しかしすぐに首を振る。


「それは自分のすぐ頭の上とかだろう? そんな離れたら――」

「どれだけ……ならできりゅ?」

「え?」

「どれだけ……ならできない?」

「……いや、分からない。って言うか、知らない?」


 だと思う。

 どれだけ離れたらできるのか、できないのか。

 実験した人がいるのかどうかも、知らない。

 おそらくたいていの人は、確かめる気も起こしていないと思う。

 自分がいない場所に光を作る必要を感じた人も、滅多にいないだろう。

 でも、やったらできてしまった。


 三日前、あの小屋を出るとき、試しに室内に『光』を灯してみた。

 どれだけ離れて大丈夫かと、何度か振り向いてみたけど、裏口に入るまで、壁の隙間に光は残っていた。

 部屋に戻って窓から見たら、やっぱり光はあった。

 窓から見て小屋はすぐ近く、僕の部屋の奥行きより少しあるか程度の距離だ。

 それで大丈夫なら、少なくとも昼間は灯し続けることができる。

 僕はたいていの時間自分の部屋にいるし、ぼんやり灯すだけならほとんど無意識に続けていられる。

 僕が部屋で起きている合計時間、本来なら昼間の日照がある時間近くまで灯し続けられたら、実験として十分だろう。

 それを三日間。

 結局、実験は成功したことになる。


「しかし――」兄はもう一度、呻き声を取り戻した。「そんな離れて光らせるの、できるの、お前だけかもしれないじゃないか」

「しょれ……もんだい……じゃない」

「え?」

「カゴ、やくたつ、だいじ」


 またひとしきり、兄は口もごもごをくり返した。

 しばらく、ややしばらく、考え。


「そうか……」

「ん」

「離れる必要、ないんだ。これを実際やるなら、村の誰か何人かに担当させる。『光』の加護は何人も、何十人もいる。交代で畑の近くにいるようにすればいい」

「ん」

「問題はただ、他の人の『光』加護でもうまくいくか、だけ?」

「ん」

「それならただ、一人連れてきて実験すればいい。日光じゃなきゃダメだと思っていたのが、加護の『光』でうまくいった。むしろ日光よりよっぽど早く、いい結果が出た。そこが大事なんだものな」

「ん」

「うまくいきそう、じゃないか!」


 椅子の上で、兄はぐっと拳を握った。

 そんな兄に。

 今日いちばん伝えたかったことを、どう伝えるか、僕はひとしきり頭に巡らせた。


「くろあおそう……」

「うん?」

「……かあ、ちゃ……に」

「母上?」

「ん」

「母上に食べさせる?」

「ん」

「それはいいけど、何でだ?」

「……きく」

「きく? ……えーと、何だ? 病に?」

「ん」

「聞いたことないぞ、そんなの。母上みたいな病にクロアオソウなんて」

「んーー」

「何でそんなこと、お前知ってる?」

「ん……」


 説明の言葉が出ず、僕はぱたぱたと両手を振り動かした。

 慌てた様子で、兄は顔を寄せてきた。


「落ち着け。いや大丈夫、ちゃんと聞くから。疑ってるわけじゃないから」

「……ん」

「だけどほら、病に効くなんて、ちゃんと裏づけ? 必要だろ」

「ん」

「誰かに聞いたとかか?」

「んん」


 小さく首を振って。しばらく考えて。

 僕は両手を前に差し出した。


「ちゅれてって……ぶどへや」

「ぶど? ああ、武道部屋か、下の?」

「ん」

「分かった、行こう」


 すぐに僕を抱き上げ、兄はもう一方の手でランプを持ち上げた。

 階下に降りて、武道部屋の手前奥、先生席の後ろの本棚を探る。

 手書きの植物図鑑。


「お祖父様が書いたものって言ってたな、これ」


 兄の記憶が正しければ、先代領主が領地内の植物を調べて記録したもの、ということになるようだ。

 開き、『クロアオソウ』の記述を当たる。

 その下、『効能』と書かれた部分。指で辿っていく。


「『めまい』とあるな。しかしこれが、母上の病?」

「ヒンケツ」

「何だ?」

「……チがたりない……」

「そんな病のことか。確かに母上がそんなのらしいな」

「しょうじょう……めまい」

「んーーまあ分かった。母上の病の症状で多いのがめまいで、それに効くってことだな」

「……ん」

「分かった。お祖父様の保証があるなら、母上も他の人も、信じるだろう」

「ん」


 正確には。

 クロアオソウの見た目から、ホウレンソウ、コマツナ、と『記憶』が連想した。

 それらの野菜は『鉄分』を多く含み、貧血に効くらしい。

 その知識に加えて、この図鑑の記述を見つけて確信に近づけた、ということだ。

 そこまでは、兄に説明できないけど。


 階段を昇りながら、ショボショボの目を擦る僕に、兄は笑いかけてきた。


「まだまだ訊きたいことがあるけど、今日はもう限界だな。また明日以降、相談に乗ってくれ」

「……ん」

「今日は助かった。ありがとうな」

「ん……」


 自分の部屋で、ベッドに寝かせてもらう。

 そっと頭を撫でてくれる感触は、なぜか前に感じたことがある気がした。

 そんなぎこちない奉仕も、僕の内でもう夢うつつの中に遠のいていった。


 さんざん、迷ったけど。

 結局、思い切るしかなかった。

 僕の目指すところ――領民と母を救いたい。

 その実現のためには、兄の力と僕の知識を合わせることが、必要だ。

 兄を信じて、腹を割ろうと心を決めた。

 不安で、不安で、しかたなかった。

 もしかすると、自分か化け物とか、異端者とか、糾弾されるのではないか、と。

 恐ろしくてしかたなかったけれど。兄を信じようと、決めた。

 それが、受け入れられた。

 ここ数日でいちばん、しばらく得られなかった、熟睡に、僕は落ちていた。


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