第56話 赤ん坊、策を練る

 間もなく。

 木々が途絶え、行く手に雪原が開けた。

 その手前、最後の木の陰で、ザムは足を止めた。

 見ると。

 開けた雪原の少し先に、新たな小さめの森があるようだ。

 ただ異様なことに、その森を高い木の柵が囲んでいる。

 そしてその柵の一角に篝火が焚かれ、その下に人影――三人ほどが立っているようなのだ。

 人の姿が、野ウサギが弓の射程外で姿を曝しているときより少し大きいかくらいに見える、そんな距離だ。

 篝火は、その人の二倍ほどのの高さに組んだ細めの丸太の上に焚かれている。

 見たところ、人間たちは何かの見張りのような様子だ。遠目で明瞭ではないが、弓、槍、剣などを持ち、防具もしっかり装備しているように見える。


「何だ、あれは」


 兄が、小声で囁く。

 この距離で、なかなか向こうまで声は届かないだろうが、本能的にひそめる気になったようだ。

 ザムの目的地はここだろうか。思っていると。

 くい、とザムは顔を空向きに上げた。続いて、


 ウオオオオーーーン


 その口から、遠吠えの声が唸り出た。

 長く続き、声は月夜空に尾を引きながら消える。

 少しの間を置いて、


 ウオオオオーーーン


 遠くから、同じような声が返ってきた。

 正確な位置は分からないが、おそらくあの、柵の内側からだ。


「ザムの仲間か?」


 兄の問いに、オオカミは頷きを返した、ように思えた。

 向こうでは、今の遠吠えの交錯に驚いたらしく、三人の人影が右往左往、何か言葉を交わしているようだ。しきりとこちらを指さしているようだが、篝火の下の人影があの程度にしか見えないのだ、暗いこちらの姿はとうてい目視できていないだろう。

 しかし、背後方向の声は気にする様子なく、こちらばかりを指さしているということは――。


「あの柵の中に、オオカミがいる。あいつらはそれを逃げないようにか、探しに来る者がいないかとかを、見張る役目なんだろうな」

「ん」

「ここはディミタル男爵領だ。あれだけ大がかりな柵が作られていて完全装備の騎士風の人間が守っているとなると、領主の意志を汲んだ設備と見るべきだろう。そこに、山向こうの森から消え失せたと同じ種類のオオカミがいるらしい――」

「こたえ、ひとちゅ」

「ああ。オオカミを誘導できる植物とかで、あの柵の中まで連れてきて閉じ込めたんだろうな」

「ん」

「これを、王都に報せれば――」


 父に報告を上げれば、王宮なりに訴え、調査が入り、と進められる、かもしれない。

 しかし。


「でも」

「何だ?」

「これ、いほう?」

「ん?」


 オオカミを柵の中に閉じ込めることを禁じる法は、あるだろうか。

 隣の領地から無断で連れ出してきたということが明らかなら、窃盗の罪くらいにはなるのかもしれない。

 しかし、勝手に山を越えてきたオオカミを危険だから閉じ込めた、と主張されたら、罪に問うことはできないのではないか。


「違法――かどうか、難しいところかもしれない、か」

「ん」


 王宮に訴え出て、争うことはできるかもしれない。その結果支持を得て、オオカミを返してもらえるという可能性も、なくはないかもしれない。

 しかしまちがいなく、それには時間がかかる。今回の野ウサギ駆除が不十分だった場合の、秋の濃作物被害阻止に間に合わないことが大いに考えられる。

 今すぐなら、森にオオカミが帰れば、これ以上の野ウサギ生息数増加に歯止めをかけられるかもしれないのだ。

 おそらく、あの柵のどこか一部を破壊すれば、それが実現できる。現在オオカミたちにどんな食料や住環境が与えられているかは分からないが、彼らにとって理想なのは、あの森での野ウサギ相手の生活なのではないか。

 オオカミの立場になったことのない僕らに断言できることではないけど、かなりの確信を持って推測できる。何よりも、今夜ザムが僕らをここに連れてきたのが彼らの解放を願ってのために違いない、この点賭けてもいいぞ、とさえ思えるのだ。

 そう話し合って、兄と僕は頭を捻った。

 ここで柵の破壊などという暴挙に出て、いいのか。

 そもそも、そんなことが僕らに可能なのか。


 小声で相談しているうち。

 がさがさ、と背後から音がした。

 あちらに見つかったか、と肝を冷やして振り向くと。木陰から現れたのは、疲労困憊の様子で馬に跨がった、ウィクトルだった。

 雪上で蹄の音が消されて、気づくのが遅れたようだ。


「はあ……やっと追いつきました。ここで何されているんですか?」

「静かに」


 兄が注意すると、「は」と応えて、護衛騎士は馬から降りた。騎手も馬もまだ息の弾みが治まらない様子で、ここまでの行程の労苦が忍ばれる。

 ザムの足跡を追ってきたとはいっても、かなりの部分同じ箇所を通ることはできず、遠回りを余儀なくされたはずだ。特にあの岩山の隙間など、どうやって馬で越えてきたのか、時間があればじっくり話を聞きたいほどに思える。

 しかしもちろんそんな余裕もなく、兄は簡単に事情を説明した。

 聞くや、ウィクトルは肉体の疲労も忘れたように激昂の顔を見せた。


「我が領のオオカミを誘拐なんて、言語道断の所業じゃないですか。構いません、あんな柵など破壊してしまいましょう!」

「あの三人の見張りの目をかいくぐって、それができるか? 少なくとも、うちの領の者の仕業だという証拠を残すことは許されないぞ。後でどんな問題になるか、分かったものではない」

「横手の目の届かない場所へ回っての工作は――難しいでしょうね。丸太を切る道具など持ち合わせていないし、あったとしても気づかれないように音を抑えるというのはかなり難しい。火を点けるにしても、すぐ気づかれるでしょう。いちばん破壊というか開放が容易そうなのは、あの見張りがいる場所ですね。開閉できる門のように見えますから、閂か何かそんなものを壊すだけでよさそうです。とするとやはり、見張りたちの息の根を止めることですか」

「ウィクトル一人で、あの三人を倒せるか?」

「残念ながら、一人ならともかく、三人は難しいと思います。気づかれないように近づいて弓で一人を倒し、それで気がついて向かってくるところ、あと一人を剣で倒せるか。まず三人は無理かと思います」

「冷静な分析だな。それにもしかするとあの見張り、離れたところに交代要員などがいて、異状があればすぐ報せる設備を用意しているかもしれない。三人だけと考えるのは、危険だ」

「そうですね」

「火を点けるのがいちばん簡単そうだが、そうあっさり燃えてくれるものかな」

「見たところ柵に使われている木材は、この辺の森に多いキタノヒノキという樹木ではないかと思われます。真っ直ぐなので丸太などによく使われるのですが、他の木に比べて油分が多くたいへん燃えやすい性質があって、家の建材などには避けられているものです」

「ということは、期待は持てるわけか」

「ですね。ふつうの薪の大きさでも火を点けたらあっという間に燃え広がって、数分で燃え尽きてしまう。着火用として重宝されますが、火持ちがしないので薪には適さないとよく知られています」

「うーむ」


 唸る兄の、肩を軽く叩く。

 首を振り、「少し考えさせてくれ」と言って、兄はザムにそぞろ歩きをさせ始めた。

 ウィクトルから少し離れたところで、その耳元に囁きかける。

 ふんふん頷きながら、少し時間を要した。

 あまり離れず木立の間を一回りして、護衛の元に戻った。

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