第55話 赤ん坊、森を抜ける

 二日後に領地に到着する、と父から連絡が届いた。

 弓の腕に覚えがある精鋭、十人が確保できたという。

 十人――。

 人数を頼んで獲物を包囲した狩りをするには、心許ない。

 一方、昨秋の兄のように一人で百羽以上を狩ることが可能なら、成果を出すことができる。

 といった点で、微妙ではあるが、期待するしかない。


 三の月の三の光の日。二階に上がる途中の窓から見た空には、満月が輝いていた。

 援軍の到着前に明日はもう一度森の中の状況を確認に行く、という兄の予定を聞きながら、ベッドに入った。

 抱きしめた腕の温かみに安心して、意識は溶けていく。


 その腕のいつにない動きに揺り起こされたのは、眠りについてそれほど時間の経たない頃合いだった、ようだ。


「なに?」


 上体を起こしている、兄に向けて問いかける。

 以前襲撃を受けたときのような緊迫は、感じられない。兄自身、戸惑いの様子でベッド脇を見下ろしているようだ。

 見ると、そちら側の兄の腕に、ザムが鼻先を擦りつけているのだ。


「どうした、ザム?」


 兄の問いかけに、大きな反応はない。何か異状を知らせるならもっと気忙しい動きを見せるはずだが。

 二人の目覚めを確かめてか、ザムはさっと窓際に駆け寄った。

 前足を枠にかけて、がすがすと窓板に鼻を擦りつける。


「何だ?」


 そうしてから急に、ザムは身を翻した。

 戸口の扉に駆け寄り、かりかりと前足で引っ掻いてみせる。


「外へ出たいのか?」


 片手に僕を抱いて起き出し、兄はドアノブに手をかけた。

 するとザムは首を伸ばし、僕を抱いた兄の袖口を咥えて引っ張る。


「まさか……」

「俺たちにも一緒に来いというのか?」


 問いかけに、ザムは明らかな頷きを返してきた。

 いつもの遊びに興じる様子はなく、見るからに真剣な表情だ。

 兄の視線が下がり、二人頷きを交わす。

 ザムの真剣な懇願なら、聞いてやりたい。


「ちょっと待てるか?」


 ザムに声をかけてから、兄はベッドに戻った。

 ロッカーを開き、二人の防寒着を取り出す。手早い手つきで僕と自分の外出支度を調える。

 僕は兄の背にしっかりおんぶされる格好だ。

 その間も、ザムはドアを鼻でつつき続けていた。

 少し遅れて、ノックの音がした。


「ウォルフ様、何かありましたか?」


 不寝番をしているテティスの声だ。

 剣と弓矢も装備し、支度を終えて兄はドアを開いた。


「え、ウォルフ様、そのお姿は?」

「ザムの希望だ。ちょっと外出してくる」

「え、え?」


 いつも冷静な女騎士が素っ頓狂な声を返したこと、誰も責めはできないだろう。

 開いたドア外へ向けて、ザムは兄を引っ張ろうとしている。


「ちょっとお待ちください。ヘンリック殿に声をかけてきます」

「急ぐようだ、長くは待てない」


 慌ただしくテティスが階段を降りていく。

 僕をおんぶしザムを従えて、兄もその後に続く。

 テティスの呼びかけに、すぐヘンリックとウィクトルが起き出してきた。

 武道部屋の戸口に、村人の夜番だったらしいディモも顔を覗き出している。


「ウォルフ様、どういうことですか?」

「俺もくわしくは分からない。ザムの希望だ」

「そんな……」

「くわしくは分からないが、俺はザムを信じている。希望は叶えてやる。たぶん危険はないはずだ、行ってくる」

「ちょ――ちょっとお待ちください」

「待てない。急ぐようだ」


 そんな執事とのやりとりの間にも、ザムは兄の袖を引っ張っているのだ。

 一度姿を消したウィクトルが、すぐに完全装備、剣と弓矢を携えて現れた。


「私がお供します。テティスはここの警備を頼む」

「了解した」


 そのやりとりを理解したように、もうザムは玄関に向かっていた。

 すぐ兄が、小走りに後を追う。

 玄関を開くや外に飛び出し、ザムはすぐ土の上にうずくまった。


「背に乗れということか?」


 ためらいなく、兄はその背中を跨いだ。

 後ろから追いかけて、ウィクトルが駆け出してくる。

 それを待たず、僕らを乗せてザムはすっくと立ち上がった。

 屋敷の角を回り、裏の森を目指すようだ。

 慌てた様子で、ウィクトルは馬を引き出している。


「ウォルフ様、少々お待ちください!」

「待てない! ついて来れないなら置いていく!」

「そんな……」


 兄と意を一つにしたように、ザムはどんどん足を速めていた。

 屋敷の裏手から、木立の間に入る。残雪の道なき坂を駈け降りる。降りた先の幅のある川を、ためらうことなく飛び越える。

 兄と僕二人の重みを感じる様子もなく、いつもの軽やかな疾走の様だ、


「ま――待ってください、ウォルフ様、ザムうーー」


 裏返りかけたウィクトルの声が、次第に遠ざかる。振り向くと、何とか馬で川の飛び越えには成功したようだ。

 木々の間を縫って、何の障害もないかのようにザムの足どりは軽やかだ。騎馬のウィクトルがついてくるのは困難だろうが、少し回りながらなら馬の通れる余地もありそうだ。残雪にザムの足跡は印されているだろうから、遅れてなら追ってくることは可能だろう。


 ぐんぐんと、ザムは森の奥へと進んでいく。

 例の洞窟や野ウサギの狩り場を目指すのかとも思ったが、方向は違う。今まで僕らが行ったことのない奥地に向かっているようだ。


 森の中には、他の動物の姿は見えない。まあもちろん、小さな動物はいたとしても、ザムの姿に身を潜め息を凝らしているのだろう。

 夜行の鳥の声もなく、ついてくるのは木枝の陰に輝く満月ばかり。

 時刻は夜半過ぎ、といったところだろう。

 馬よりも速いだろう疾走に風が頬を打ってくるが、兄の背に押し当てていれば冷たくはない。

 生まれて初めて経験するこれほどの速度に、爽快さを覚えてしまうほどだ。


 木々の間を抜け、溶けかけの雪をはね上げ。

 走る、走る。闇を切り裂き。

 走る、走る。


 一刻ほども、疾走は続いただろうか。

 わずかに木立が開け、前方に幅広い岩山が見えてきた。

 隣のディミタル男爵領との間を隔てる、境界だ。

 横方向には見渡す限り絶壁が続き、間を抜けるただ一つの道は、ほとんど獣しか通れないような狭い裂け目状のものだけだという。それも冬期間は積雪と凍結で、ネズミさえ抜けられない難所と言われる。

 今はようやく雪が溶けて、辛うじて通れるということなのだろう。足を止めることなく、ザムは狭い裂け目に駆け入っていた。


「隣の領へ行くのか」

「みたい」


 兄の呟きに応えて。何となく、行き先の予想がついてきた。

 いくつか大きな岩に駆け昇り、飛び降り。停まることなく、オオカミは駆け続ける。

 走る、走る。

 走る、走る。

 やがて岩の合間を抜け、また木立の下へ入った。

 ここから、ディミタル男爵領だ。話に聞いたように、ここら辺はうちの方より積雪の量が多いようだ。

 まだ白い雪をはね上げ、木々の間を。

 走る、走る。

 走る、走る。


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