第54話 赤ん坊、溜飲を下げる

 その場は解散して、僕らはヘンリックとともに屋敷に戻った。

 帰途の道すがら、兄は苦い顔で吐き出した。


「こんな時期での妨害行為、これもかの男爵の息がかかっているのではないか?」

「十分あり得そうですな。旦那様は今、必要な返済分を確保して準備を進めているところですが、相手はそこまで感知していないと思われます。もう一押し邪魔をすれば返済を阻止できると考えているやもしれませぬ」

「大学から論文公開の許可が出たとして、この営業妨害を排除できるのか?」

「警備隊の力も借りて、座り込み自体は追い払えると思われます。しかし一度傷つけられた信用をどれだけ回復できるものか、難しいところです」

「くそ――返済の目処が立った後だというのが、せめてもの救いだな」

「さようでございますな」


 一同、憤懣やるかたない様子で帰宅。

 翌日、ヘンリックとベッセル先生は慌ただしく出立していった。

 アルノルトが領主邸に挨拶をして、徒歩で南に向かうのも見送った。


 七日後、ヘンリックは先生を伴って帰ってきた。

 販売店に論文の該当部分の写しと大学の内容証明を貼り出して、ベッセル先生が客たちに説明を行ったという。

 加えて、近所の主婦を中心に招待して、ゴロイモの調理法を実践指導する催しを開催した。それでかなり客の忌避感の払拭に成功したようだ。

 座り込みをしていた男たちはその後も「そんなの信用できるか」と騒いでいたが、警備隊に排除されたとのこと。

 それでも以前より売り上げは落ちているが、少しずつ回復の兆しは見えているらしい。


 ヘンリックが店の経営を見守り、その間にヘルフリートが裏の調査に動いた。

 その結果、座り込みをしていたリーダー格の男がディミタル男爵の懐刀の文官と連絡をとっていることを、確認した。

 それだけでかの男爵の指示という断定はできないし、その男の行為自体犯罪と取り締まられるものではない。それでも、こちらの心証としては十分な確認だ。


 二人が帰宅して数日後、父から連絡が来た。

 ディミタル男爵邸へ出向いて、借金の今期返済約束分より多い元金の八割に当たる額を納めてきたという。

 相手のくわしい態度などは記載されていなかったが、表立っての問題は起きなかったようだ。

 約束分以上の返済を果たして、これで正式に東の森の所有は守られたことになる。


「当家がすでに塩の販売を始めていることはまだ知られていないようですが、知った暁にはあちらの御仁、歯噛みをして悔しがるやもしれませんな」


 ヘンリックの言葉に、家人一同安心するとともに、少しばかり溜飲の下がる思いになった。


 当面の問題を片づけて、次の段階へ。

 父は王宮や交流のある領主に働きかけて、野ウサギ駆除の助力を願い出ている。

 しかし兄が気づいたように、そうして集めた助っ人に経験のない野ウサギ狩りがどこまで可能か、見当もつかない。

 そうした問題点は承知の上で、とにかく人手を集めなければ始まらない、と協力依頼を続けているところだ。


 そんな状況で、三の月を迎えた。


 パンパカパーン――はそろそろ自粛するけれど、朗報です。

 僕は自力歩行ができるようになりました。

 なんと現在の自己最長不倒記録、十五歩。


――ショボい……。


 それでも何とか、ザムの尻から手を離してよたよた歩き。

 限界で立ち止まり、よろけかけて踏み留まり。

 その瞬間、息を呑んで見守っていた周囲から、一斉に拍手を頂戴した。

 幸運に居合わせていた母がたちまち駆け寄って、抱き上げられた。


「すごいすごい、ルートルフ、すごいです」


 拍手よりも賛辞よりも嬉しい優しい抱擁を、僕は心ゆくまで堪能した。


 年明け頃に予想されたように、結局この冬は積雪が少なめで、平地には早くも土の色が見えるようになってきた。

 森の中も雪解けが始まって、野ウサギも行動を始めたらしい。防護柵の外にちらほら姿を見かけるようになったと、村人から報告が来た。

 兄がウィクトルを連れて視察に行き、森の入口付近で見かけた個体に矢を射かけてみた。しかしやはり賢く射程距離に入ってこない相手に、命中はできなかったという。

 同伴したウィクトルも弓は得意で兄より射程距離は長いのだが、それでも仕留めることはできなかった。


「賢さやすばしこさは変わらない。それでいて生息数は数倍になっていると予想される、というわけだ」


 母とヘンリックに報告して、兄は嘆息した。

 聞いて、ヘンリックも難しい顔をしかめる。


「ウォルフ様が案じられていたように、救援の他領の狩人たちの弓で、駆除は困難ということになりそうですな」

「弓の腕では予備隊でトップクラスだったウィクトルで苦戦するなら、他領の救援の者にもほぼ難しいと思われます」


 テティスが言葉を添える。

「手前味噌ですが、自分もそう思います」とウィクトルも続けた。

 頷いて、兄は首を振った。


「数を頼んで野ウサギの群れを包囲するなどできればまた違うかもしれないが、それまでの余裕は持てないだろうな」

「野ウサギの数が増えているということで、あるいはそういう機会が作れるやもしれませぬが、期待を持つには難しいと思われますな」

「とにかくも、やってみるしかない、か」


 父の方では、騎士団や他領の護衛の中から特に弓の得意な者を貸し出してもらえないか、交渉を続けているらしい。

 宰相の協力が得られたのだろうか、王都の騎士団からも派遣してもらえそうな流れになっているというのが、けっこうな朗報だ。

 しかしもう日数の余裕はない。確保できた少数の援軍で動き出すべきか、父も見極めどころを探っているという。


 兄はもう一度、ウィクトルとディモを伴って少し森の中まで踏み込み、見つけた野ウサギの討伐を試みた。

 しかし三人とも、猟果は皆無だった。

 個体数は確かに増えているようで、狙うだけなら選び放題なのだが、昨年よりいっそうすばしこさを増したかのようにすぐ射程から抜け出してしまうのだという。

 ディモの目に、兄の結果は昨秋と雲泥の差に映っただろうが、まだ雪の残る不安定な足場のせいと慰めてくれたらしい。

 夜の兄の部屋で兄弟二人、難しい顔を見合わせた。


「騎士団の弓の名手を連れてきたとしても、あれは難しいと思う。野ウサギ相手も、こんな雪の残る狩り場にも不慣れなんだろうから」

「……だね」

「こちらの矢が届かない範囲なら悠々と姿を曝す、という点では変わらない。弓の名手があの距離でも届くというなら、また話は違うんだが」

「ん」


 溜息混じりに話しながら、兄の頭にも当然一つの案は浮かんでいるはずだ。

 兄からは言い出しにくいだろうそれを、こちらから口にした。


「やっぱり……ぼく、いく?」

「うーむ……」


 昨秋と同じように射程範囲外に悠々と姿を曝すということなら、僕の『光』は使える可能性が高い。

 兄との話し合いで「一歳になるまでは加護の使用を控える」ということにしていたけれど、その期限はこの月末で、もうほとんど大差はない。

 僕の体調も当時とは大違いで、歩行ができるまでになっているのだ。もう心配していた身体への影響は、気にしなくていいだろう。


「それしか、ないか……」

「ん」


 数日後には父が助っ人たちを連れてくる、という連絡が来ている。

 やるとしたら、その前だろうか。

 しかし、何点か問題がある。

 まず、兄が僕を背負って猟に臨むとしても、必ずウィクトルが同行している。僕の『光』の使用は、ディモならともかくウィクトルの目を誤魔化すのは至難の業だろう。

 それはどうにか工夫するとしても、さらに先を予想すると、暗澹とした気にしかなれない。

 あの野ウサギたちの賢さだ。兄と僕のコンビでたとえば数百羽を狩ることができたとしても、そのうち学習して人間の目が届く範囲に姿を曝すことをしなくなるのではないか。

 個体の顔が判別できる距離なら、僕の『光』は有効だ。しかしほとんど点ほどにしか認識できない遠さなら、まずどうしようもないのだ。

 正確な数は分からないが、現在の野ウサギの生息数は少なく見ても千羽を超えているのではないかと思われる。数百羽程度を狩れたとしても『焼け石に水』なのではないか。

 野ウサギたちが学習する前にその大半を討伐するのは、おそらく兄と僕だけでは体力的に無理だろうと思われるのだ。

 それに、この学習が助っ人たちの到着前に実現していたら、ますます彼らの弓が通用しない状況を作り上げてしまうことにもなる。

 そんなことを話し合い、兄と僕は「うーーん」と腕組みで唸ってしまっていた。


「十分あり得そうな話だよな……だとして、根本的な解決になりそうないなら、俺としてはお前に無理はさせたくない」

「ん……」


 僕の方も、何としても無理をするとは主張にくい。

 現段階で体力と加護の限界がどれくらいか、まったく自分でも分かっていないのだ。

 無理をしてたいした成果もないままただ母を泣かせる結末など、考えてみたくもない。


「それを考えると、お前を連れていくにしても、父上が連れてくる援軍の成果を見てから、かな」

「ん……」


 結局、傍目には何とも煮え切らないと言われても反論できないような、そんな結論に落ち着くしかなかった。

 これだけいろいろ検討し準備を進めたつもりなのに、はっきりした成果を望めそうにない。へたすると「何もやらないよりはまし」程度にしか期待を持てないというのが、何とも情けない。


「まあ悲観するのは早い。もしかすると、騎士団の弓の名手がすごい成果を出してくれるかもしれないしな」

「……ん」


 ほとんど慰め程度の言葉を交わして、その夜は眠りにつくことになった。


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