第57話 赤ん坊、帰る

「ウィクトル、あの左手の小さな林の中から、見張りの気を引くことはできないか。何か音を立てるとか。大事なのは、こちらの顔や姿を見られないのはもちろん、足跡なども極力残さない、できれば人の仕業ではなく獣などのせいだと結論づけられるようなのがいい」

「はあ。ご命令とあれば。しかし、ウォルフ様。まさか――」

「俺は、危ないことはしない。誓うが、この場所から動かない」

「約束ですよ。もしウォルフ様があちらに近づいて見つかるとか、あいつらがここに気がついて打って出るとかしたら、今の注意は忘れて私は、三人相手に切り込みますからね」

「分かった。絶対そうならないようにする」

「しかしそうすると、ウォルフ様、何をするつもりで?」

「詳細は秘密だ。とにかく今言った使命を果たしてくれ」

「は……」


 首を捻りながら、それでもウィクトルは馬を引いて左手に向かった。

 やがて、その後ろ姿が木立の中に消える。

 ややしばらくして、遠くでこちらの森からくだんの林の方へ移動する影が、かすかに見えた。

 その間に、僕と兄は見張りの篝火の方を凝視していた。

 三本足の形に組んだ篝火の細めの支柱も、その奥の柵と同じ種類の木材ではないかと思われる。

 見比べて、僕はまず見張りより少し離れた右側の柵に目をつけた。丸太を組んだ柵の下の方、ここから見ても黒ずんだ部分がある。


 しばらく待つうち、その部分から煙が立ち昇り始める。

 本当に燃えやすい木材らしい。長く待つこともなく、それは赤い口火に変わっていた。

 一息で駆けつけられそうな距離なのだが、まだ見張りたちは気がつかない。

 少しずつ、赤い火は大きくなる。

 そのとき、

 がさがさ、と左手から大きな音がした。木が揺れる響きだが、ほとんど風もない中、自然のものとは思われない。

 見張り三人が一度集まり、槍を持った一人が林の方へ駆け出した。

 残った二人も、そちらを注視している。その背後で、柵に点いた火は次第に大きくなっていく。

 次に、僕は篝火の支柱に目を転じた。三本のうち、いちばん柵に近いもの。その下方で、黒ずみの見える部分。

 待つうち、煙が昇り出す。それがやがて赤らみ、発火。

 支柱にはっきり炎の形ができたところで、見張りたちも気がついたようだ。

 慌てて右往左往しているが、消火の水の用意はないらしい。一人が、着ていた上着を脱いで炎を叩き出す。

 しかし、火の勢いは弱まらず。

「わあーー」という悲鳴が、こちらまで聞こえてきた。

 火の点いた支柱が折れて、篝火が大きく傾き出したのだ。押さえる暇もなく、柵の方へ向けて倒れ込んでいく。

 その間にも、最初に発火した柵の炎は燃え広がっていた。


 念のため、僕は少し離れた柵の別の箇所にも、同じ操作を始めていた。

 黒ずんだ部分へ向けて、ごく細めた『光』を照射するのだ。

 それだけで、思った以上にあっさりと、木材に点火することができている。

 ごく細めているし、篝火の明るさの中にいる見張りたちに、この『光』は目に入っていないだろう。

 同じ操作を、さらに数箇所。

 その間に、最初の発火点ではもう縦の丸太一本分が燃え尽きようとしている。

 林へ向かっていた一人も慌てて引き返してきて、三人が分かれて消火に当たっているが、なかなか果たせない。その間にもどんどん発火地点が増えている。

 離れたこちらからは、何か無声の喜劇でも見ているかのようだ。ばたばた人が駆け回り、処置の甲斐なく火は燃え広がり続ける。


「な、な――何ですか、あの火は?」


 素っ頓狂な声を上げながら、ウィクトルが戻ってきた。

 兄とザムが元の場所に留まっているのを確認して、大きく息をついている。


「本当にウォルフ様、ずっとここにいらしたんですね。でもじゃあ、あの火は何なんです?」

「知らない。気にするな」

「気にするなって――」

「それよりも、この後が大事だ。目を離すな」

「は、はい」


 凝視している先、ついに焼け落ちた間のやや広い柵が崩れた。

 踊るように見張りたちが駆け寄り、柵を立て直そうと奮闘している。

 そこへ、


 ウオオオオーーーン


 ザムの口から、遠吠えの声が放たれた。

 間を置いて、


 ウオオオオーーーン


 柵の奥から、返す声。

 見るうち、見張りたちの動きがますます慌ただしくなっていく。

 柵の中を覗き込み、それからすぐに、慌てて左右に分かれた。

 音は聞こえないのに。どどどどど、と響きが感じられる気がした。

 闇の中に、一瞬白い点が見え出した。見る間にそれが大きくなり、数が増え。

 あっという間に白っぽい獣の群れの形をなして、崩れ落ちた柵の部分へ殺到してきたのだ。


 大群が通り抜ける、その只中に、見張りの一人が矢を射かけた。

 あ、と肝を冷やして目を瞠ったが、獣に命中はしなかったようだ。

 次の瞬間、駆け続ける群れの中から一頭が飛び出して、その見張りに飛びかかった。堪らず仰向けに倒れる、喉元に食らいついているようだ。

 慌てて仲間たちが救助に入る。素速くオオカミは飛び退き、たちまち元の群れに戻っていく。


 こちらで、ザムが「ぐうう」と喉で唸りを漏らした。


「わああ!」


 すぐ脇で、ウィクトルが悲鳴を上げた。

 見る見るうちにその大群の先頭が、こちらへ向けて近づいているのだ。

 いち早くザムが横へ移動し、ウィクトルと馬も慌ててそれに倣う。

 数呼吸も待たないうちに、白い獣の疾走は今まで僕らが立っていた地点を駆け抜け、森へ突入していった。

 横手から満月に照らされた、それは神々しいまでの白銀色のオオカミたちの駛走姿だった。

 数えきれないが、おそらく数十頭に昇るだろう。脇目も振らず雪をはね上げ、森の奥へ消えていく。

 疑いなく、さっき僕たちが通ってきた道を辿り、元住んでいた森を目指しているのだ。

 それを見送って、兄は護衛に声をかけた。


「よくやってくれた、ウィクトル。木を揺すって音を立てたのだな」

「はい。木の上の方に紐をかけて、少し離れて引っ張りました。上に積もっていた雪が落ちたので、周りに足跡は残っていないはずです」

「うむ。よくやった」


 くり返し褒め称えて、兄はちらりと僕を見た。

 二人ともに、少し申し訳ない気があるのだ。ウィクトルに頼んだ理由はもちろん、見張りの目を逆方向に引きつけるためだが。実を言うと最も重要なのは、彼に僕の『光』を見せないことだったのだから。


「ただしウィクトル、命令だ。今の出来事については、誰にも言うなよ。俺たちが見ている前で、偶然あの篝火が倒れて火災になった、それだけだ」

「はあ……」

「それじゃ俺たちも行くぞ、ザム」


 軽く首を叩くと、嬉しそうにザムは仲間たちの足跡を追い出した。


「あ、ウォルフ様」

「ついてこないと、置いていくぞ」

「ま、待って――」


 慌てたウィクトルの声が、一気に遠くなる。

 まあ往きと同じく、馬がザムにぴったりついてくるのは無理だろう。

 しかし帰りは迷う心配もなく、追っ手に追いつかれさえしなければ何ということもない。

 その追っ手の方はまだ消火に大わらわで、馬を準備した様子さえ見えないのだ。


 岩山の難所を軽々と越え。僕らは自領へ戻った。

 先行したオオカミの群れはもう影さえ見えないが、足跡が続く向きはあの洞窟、つまりもともとの彼らの群棲地のある方角だ。

 確認して兄がそっとザムの首を左向きに押しやると、素直に屋敷の方へ進路をとってくれた。今夜の目的は達したということらしい。

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