第58話 赤ん坊、狩りに向かう

 家に帰り着いたのは、まだ暗いうちだった。

 玄関に入ると、武道部屋でディモたちと待機していたらしいヘンリックとテティスがばたばたと出てきた。


「済まない、心配かけた」

「ウォルフ様、いったいどちらへ」

「隣の、ディミタル男爵領だ」

「はあ?」


 目を丸くする執事に、兄は簡単に説明する。

 岩山を越えたすぐ先に柵で囲まれた森があり、オオカミが閉じ込められていたこと。

 どうしようかウィクトルと相談するうち、見張りの篝火が倒れて、柵が燃え出した。

 柵が焼け落ちた隙間から、一斉にオオカミたちは逃げ出してきた。

 足跡を辿ると、無事元の棲息地に戻ったようだ。


「えーと……」難しい顔で、ヘンリックは首を捻った。「ウォルフ様たちが見ている間に、偶然篝火が倒れた、ということでございますか?」

「誓ってもいいが、俺たちはその柵に近づいていないぞ。それより、大事なのはこの後だ。俺は少し眠るが、テティス、朝の一刻に起こしてくれないか。こんな騒ぎにして申し訳ないが、ヘンリック、家の者はいつも通り朝から活動を始めてくれ。それからディモ、夜が明けたら村の者たちに報せを回してくれないか。オオカミが戻った以上、森の野ウサギたちに動きが見られるかもしれない」

「へい」

「テティス、もう少ししたらウィクトルが戻ると思う。彼にも、朝一刻まで休んだら動けるようにしてくれと、伝えてくれ」

「かしこまりました」


 ほとんど相手に質問の余裕を与えないまま次々と指示を出して、兄はザムと僕を連れて部屋へ戻った。

 手早く重装備を脱ぎ捨て、僕を布団の中に入れる。

 横になる前に、ベッド脇にうずくまるザムの頭を、僕はぐりぐりと撫でてやった。


「ざむ、まえはあそこにいた?」

「だろうな。でないと、さすがにあそこまで迷いなく走り着くことはできないだろう」


 最初は他の仲間と一緒に、あの柵の中に閉じ込められたのだろう。

 そしてたぶん、まだ子どもだったザムだけが抜けられる隙間があって、外に出ることができた。元の森へ向かおうとしたところを見張りに見つかって、矢を射かけられ、前足に傷を負ったのではないか。

 完全に想像でしかないが、さっき仲間に矢を射かけられるのを見たときだけ、ザムが冷静さを失っていた。そんな様子から、ある程度確信が得られる気がする。


「これでザムも満足したんだろうな。ここへ帰ってきてくれたということは、仲間の元へ戻らずこのままいてくれるということか」

「ん」

「ならとりあえず、安心してひと眠りしよう。ルートも朝、大丈夫そうか?」

「たぶん」

「じゃあ、二三刻ほどしかないかもしれんが、とにかく睡眠をとるぞ」

「りょうかい」


 僕の方は帰りの道々、少しはうとうとくらいできたのだけれど。やっぱり夜更かしは応えたようで、たちまち眠りに落ちていた。


 指示の通り、僕らはテティスに呼ばれたというベティーナに起こされた。

 階下に降りていつもより早い朝食をとっていると、母も起き出してきた。ヘンリックから夜中の件について初めて説明を受けて、目を丸くしている。


「母上、ご心配をかけるような行動をしてたいへん申し訳ありませんが、誓って危険なことはしていませんので」

「それは、まことですか」

「はい、神に誓って」


 最初から最後まで訳の分からない話で、母にとっては息子を叱責するにしても焦点が絞れないようだ。

 首を傾げながら、警備体制に戻っているウィクトルにも確認する。

 護衛の大男も、戸惑い気味ながらはっきり返答した。


「確かに、ウォルフ様も私も、その柵の方には近づいておりません。突然篝火が倒れたのが好都合すぎて、まさか魔法でも使ったのかとさえ思ったのですが、ウォルフ様の加護は『火』ではありませんし、もし『火』の加護持ちでも『風』でも、あの距離では届きません」

「そうですか」

「もうこれは、ウォルフ様が神に愛されているのだと思うしかない気がします」


 実際ウィクトルにとって、あの林で陽動行動をとったことを隠している以外、正直な述懐のはずだ。信じられない思いは本心で、その発言に迷いは感じられない。


 そんな話をしているうち、玄関に声が聞こえてきた。

 テティスが確認に出て、すぐ戻ってくる。


「ディモの息子のアヒムという少年が、ウォルフ様に話があると来ています」

「通してくれ」


 すぐに、息を切らしたアヒムが駆け込んでくる。


「ウォルフ様、親父から伝言さ。防護柵の外に、どんどん野ウサギが集まってる。村の弓を持つ者たちを連れて、親父は狩りに行ってる、でさ」

「分かった、すぐ行く。ディモたちには、柵を抜けられそうなところを調べて、そういうところを優先して野ウサギを狩るように伝えてくれ」

「は」


 すぐにとって返すアヒムを見送る。

 急ぎ食事を終えて、兄は立ち上がった。


「母上、私も野ウサギ狩りに行って参ります。ウィクトルを連れていきます」

「危ない真似はしないのですよ」

「はい。今日は森に入ることにはならないはずです。防護柵の中から向かってくる野ウサギを弓で狩る、ということだけで終わると思われます」

「分かりました」

「それから、ルートルフを背負っていくことをお許しください」

「え、何故ですか?」

「私の弓は、ルートを伴っていると命中率が上がるのです。今も言いましたように、今日の狩りに危険はありません。絶対にルートが危ない目に遭うことはしないよう気をつけます」

「ですが……」


 一度難しい顔を小さく振って、それから母は頷いた。


「分かりました。ルートルフを伴っていれば、ウォルフもいっそう安全に気をつけるでしょうからね」

「はい」


 二階に上がって、外出装備を調える。

 僕の支度に手を動かすベティーナは、しきりと「ルート様が危なくないようにお気をつけて」と兄に向けてくり返していた。

 僕を背負い、剣と弓、ありったけの矢を携えて、兄は玄関に向かった。言われなくても、ザムが従ってくる。

 玄関口にはウィクトルに並んで、珍しく弓を手にしたテティスも待機していた。


「ウォルフ様、わたしもお連れください。ウィクトルほどではありませんが、弓は使えます」

「構わないが、大丈夫か? 徹夜明けだろう」

「二刻ほどしか睡眠をとっていないウォルフ様やウィクトルと、大差ありません。むしろ昨日の昼まで休んでいたわたしの方が、遠出していたお二人より体力を残しています」

「そうか。なら、来てくれ」

「はい」


 遠距離ではないが、気が急いている。兄はザムに跨がり、護衛たちは馬に乗った。

 村中を駆け抜け、森の入口方向へ。

 防護柵の出入口付近に十数人の男たちが集まり、木の柵の隙間から弓を射ているのが見えてきた。

 声をかけると、すぐにディモが振り返る。


「見てくだせえ、ウォルフ様。とんでもない野ウサギの数でさ」

「すごいな」


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