第9話 赤ん坊、自室に入る
赤ん坊車に残った荷物を見て、少し思案し。
「これは、あちらですね」
侍女はもう一部屋に続く扉を開いて、運んでいく。
どうもそちらは、寝室になっているようだ。
テーブルで、一人待機。
向きが変わって見ると、廊下側の壁が大きくこちらに迫り出して小さめの扉がある。
トイレや浴室、使用人の休憩室くらいはあって不思議のない大きさだ。
その扉近くに、今僕が向かっているものよりは小さく簡素なテーブルと椅子が置かれている。
荷物を置いて戻ってきたナディーネは、その小さめの扉を開いて入っていった。
すぐに出てきたその両手に、深皿を載せた盆を掲げている。
その皿が、僕の前に置かれる。
「はい、お夕食ですよ」
横に木の匙が並べて置かれるところを見ると、自力で食べよということのようだ。
それを裏づけるように、すぐに侍女はこちらに背を向けて離れ、壁脇の小さなテーブル前に腰かけている。そこが自分の居場所、ということか。
納得して、僕は匙を手に取った。
深皿の中身は、昼とはまた違った野菜を煮込んだらしい離乳食だ。
熱すぎないし、味も濃すぎない。量もちょうどいい。
当たり前だけど、王宮での食事は高品質なものと信用しておいてよさそうだ。
離乳食である限り、内容が豪華になりすぎるという心配もしなくていいだろう。
などと考えながら。
腹が満たされていくに従って、僕の意識はふわふわと浮遊を始めかけていた。
どうにももう、睡魔を抑えきれそうにない。
半固形の食物を掬い上げた匙が何度も口元をずれ、生温い雫が顎へと伝い落ちる。
そのたび何とか拳で口下を拭い、それ以上の被害を食い止めて、
――見た目格好つけず、涎掛けをしていて、よかった。
などと、ぼんやり考える。
辛うじて意識を保って、皿の中身を口に入れ終えた。
ことり、と匙を手から離す。
ほとんど卓上に額をぶつけそうなほど、首が折れていく。
それと気づいて、侍女が寄ってきた。
テーブルの上を確認し、後ろに回って僕の両腋に手を差し入れる。
「それでは、もうお休みですね」
こくりと頷く、と言うより、首が垂れ落ちる。
「お休み前に、用を足してくださいね」
両脇で抱き上げ、だらりと足が伸びる。そんなあまり経験のない姿勢で、僕は小さめの扉をくぐって運ばれた。
入ってすぐ右、トイレと覚しきドアが開かれ、その中に立たされた。
「お利口にするんですよ」
言い置いて、背後にドアが閉じられた。
一人、残され。
目の前には、男爵邸と大差のない便器。
大人の膝下くらいの高さに床が持ち上がり、そこに丸く穴が開いている形だ。
――うーん。
少し意識を戻して、僕は現状を見直した。
つまりは、一歳児に一人で用を足せ、ということのようだ。
――いや、まあ、できはするんですよ、一人でおしっこ。
思わず、誰にともなく言い訳してしまう。
実家でも、なるべく一人でするように、努めてきていたのだ。
それでも何か事故があってはならないと、毎回必ずベティーナが付き添ってくれていた。
さらにその一人で向き合った相手も、最初はおまる、後からは幼児用の補助器具のついた便器だった。
今日、執務の間にヴァルターが連れていってくれたところにも、そうした装備は用意されていた。
つまり、本当にただ一人で、補助器具のない大人用に挑戦するのは、初めての経験なのだ。
――後宮の王子王女は、幼時からなかなか高いハードルを課せられるらしい。
『そんなアホなことあるかい!』とどこかからツッコミが聞こえた、気もするけど。
眠気と尿意に、ほとんど余裕はない。
何とかよじ登り、大きな穴に落ちないようぶるぶる膝を震わせながらバランスをとって、必死の思いで用を足すことができた。
ぐいとドアを押すと、すぐに開いた。
待機していたナディーネに、また後ろから腋に手を入れて抱き上げられる。
いや抱くと言うより、猫の子のようにぶら下げられる、という感覚に近いか。
何しろまた、支えのないまま下半身はぶらぶら揺れっ放しだ。
その格好で僕は、寝室に運ばれた。
――わお。
ほとんど落ちかけていた両瞼を、思い切り見開いてしまう。
そこに据えられていたのは、生まれてこの方見たこともない、いわゆる天蓋つきベッドというものだった(少し時間差で『記憶』が情報を出してくれた)。
天井より少し下の支柱から垂らされた白いレースが、四角くベッドを囲んでいる。
しかもそのベッド自体、かなり大きい。
男爵家の当主夫妻用のダブルベッドより、さらに大きいのではないだろうか。
――無駄!
思わず、心中叫んでしまっていた。
――赤ん坊一人のために、何てもの用意しとるんじゃ!
まあもちろん、口には出さなかったけど。
内心で力を込めてしまった分、柔らかなベッドに下ろされたときには、さらに疲労と眠気が増幅していた。
シーツの上におっちゃんこして、頭を揺らしていると。
ナディーネが首の後ろに手を回して、涎掛けを外してくれた。
それを妙におっかなびっくりふうの手つきで丸め、すぐ近くのテーブルに乗せている。
見て、ああ、と思う。
さっきからのナディーネの奇妙な抱き上げ方。食事で汚れた涎掛けに触りたくなかった、ということらしい。
――汚しちゃって、ごめんなさいね。
すぐにナディーネはベッドの陰に回り、一抱えの布製品を運んできた。
それが、僕の前に置かれる。
「お寝間着です」
告げて、一歩後ろに下がっている。
つまり。着替えもセルフサービスということらしい。
一歳児の、セルフ着替え。
――後宮の王子王女は、幼時からなかなか高いハードルを課せられるらしい。
『………』
――いや、ツッコんでくれないと、淋しいんだけど。
とは言えもう驚くこともなく、僕はもぞもぞと脱衣を始めた。
眠気が限界に近づいて、抗議や質問を口にする気力も起きない。
とりあえず、着替えも何とか一人でできるようにしてきたのだ。
必ず、ベティーナが見ていてくれたけど。
一人でできることはする。僕の方針として、何ら問題はない。
足から潜り込んだ寝間着は、今まで経験したことのない柔らかさだった。
上下一体の作りで、腕まで通すと、全身ふわふわに包まれて疲労も消えていきそうだ。
ただ、首の後ろから背中にかけていくつかのボタンで閉じる形らしいけど、そこまで手が届かない。
まあ眠るのに支障はないだろう、とそこは放置と決める。
脱いだ衣類を、ナディーネが丸めて抱え上げている。
それを確認して、僕はごそごそと布団に潜り込んだ。
一応掛け布団を整えて、侍女は半開きだった窓を閉じた。
薄ぼんやりだった明るみが消え、部屋の中は闇に沈む。
テーブルに丸めた涎掛けも、摘まみ上げ。
「こんな汚して。ああやだ」
さほどひそめるわけでもない、呟きが漏れる。
そのままドアが開き、退出していく音が聞こえた。
いろいろ引っかかる、考えるべきことがある、気もするけれど。
もう睡魔に抗いきれず、たちまち僕の意識は沈んでいった。
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