第10話 赤ん坊、夜中に目覚める

 目が覚めると、闇の中だった。

 ゆっくり記憶を集め、自分の現状に思いを巡らせる。

 たぶん現在地は、あの無事縁から降り立つまでに遭難しかねない気がするほど広い、ベッドの中。

 時刻は真夜中、らしい。

 いつになく早く床に着いた。まだ窓の外は明るい、おそらく夜の一刻前くらいだったろうから、それから普段通り十六~十八刻分くらい眠ったとしても、夜明けにほど遠い真夜中だ。

 などと思っていると、すっかり眠気が消えているのに気がついた。

 しばらく目を閉じてみても、さっぱり新たな眠りは訪れない。


 仕方なく、この寝室の様子を観察することにする。就寝前は、周囲を見回す余裕もなかったのだ。

 ぽっと、頭の上に小さな『光』を灯してみる。

 暗闇から、どこか幻想的に近傍の有りようが浮かび上がってくる。

 すぐ目に入るのはベッドを囲む、かなりの高みから流れ落ちるかの様相の白いレース。

 その、さっきベッドに上がってきた方向の一辺が開かれて、入口の扉が見えている。

 扉と壁の手前には、夕食をとったのと同じくらいの大きさのテーブルと椅子。

 実家から持ってきた鞄が椅子の足元に置かれ、執務室から借りてきた板本が卓上に積まれている。

 他に、調度品らしきものは見えない。

 さっきのナディーネの動きからして、こちらから見えない陰に衣装棚のようなものがあるのだろう、と想像できる程度だ。

 受ける印象は、隣の部屋と同様。

 一つ一つの調度は高級品のようだけど数は最低限、余った空間が空疎のようなものを伝えてくる。

 まあこれは、部屋の主がようやく入ったばかりなのだから、不思議のないところなのかもしれない。

 そんな観察、考察をしているうち、ますます目が冴えてきた。

 自分の内に意識を向けると、尿意を覚えてきている気もする。

 意を決して、僕はごそごそと広いシーツの上に移動を始めた。


 やや手間をかけて、絨毯の上に足を下ろす。

 頭上に『光』を灯したまま、よたよた歩いて、扉に辿り着く。

 レバー型のドアノブには、背伸びをして何とか手が届いた。もしかすると、子ども仕様に作られているのかもしれない。

 ドアを開くと、当然さっき食事をした部屋だ。

 右手方向に、小さめの扉があるはず。見つけて、そちらへよたよた歩を進める。

 扉を開いた、その中の有様ありさまはさっきよく見る余裕がなかった。

 すぐ左手に一つ、正面とその右隣に一つずつ、またドアがある。トイレは右の方だったはずだ。

 左のドアは、何かしら小部屋に続いているように思われる。使用人用の部屋か。ナディーネがここで休んでいるのかもしれない。

 正面は、浴室だろうか。

 考えながら、右へ向かう。

 トイレでは、寝る前以上に難渋した。

 何しろ着ている寝間着が上下一体で、下ろすだけで一苦労なのだ。


――絶対これ、子どもが一人で着脱することを想定して作られているものではない、と思うぞ。


 それでも何とか、悲惨な失敗をすることもなく、事を終える。

 元の居間に戻ったときには、一仕事完遂した心持ちになっていた。

 改めて、部屋を見回す。

 応接用の椅子とテーブル、食事に使ったテーブル、正面の窓に大きなカーテン。

 当然ながら、初めて入ったときと同じ様相だ。


――ここが、僕の生活する部屋。


 なかなかに、実感が湧かない。

 その広さも、贅沢さも、空疎さも。

 まあしかし、決まったことだ。これから慣れていくしかないのだろう、と思う。


 寝室に戻るかと向きを変えかけて、気がついた。

 足元に、何か落ちている。

 ナディーネが使っていた小さなテーブルの脚の間だ。

 拾い上げてみると、薄く平たい四角形、木の皮製のようだ。表面に文字が連ねられている。

 どうも、手紙のようだ。

 見たとたん、おおよその内容が頭に入ってしまう。ナディーネの親から、故郷の村の様子を伝えてきたものらしい。

 テーブルから落ちたのだろうと椅子に乗って卓上に戻してやると、そこには筆記板と石盤が並べられていた。

 石盤に同じ文字がいくつも並ぶ、それは文字の書き取り練習をしていたのではないかと思わせる。おそらく、ナディーネの勉強用なのだろう。


 ふうん、と頷き。

 そんな場所を乱すのも申し訳ないので、手を触れないようにして椅子を降りる。

 自立がそろそろ辛くなってきたけれど、なんとか足を進めて寝室に戻る。

 ベッドの縁によじ登って、しばしの黙考。

 どうもすっかり目が冴えて、布団に戻っても眠れない気がする。

 横になってただ思いを巡らせていると、余計なことばかり気になってますます眠れなくなりそうだ。

 例えば、この新しい生活環境の、事前情報との中途半端な齟齬、とか。


 部屋は広くて、立派だ。調度品も王族にふさわしく見える。

 食事も、申し分ない。

 衣類も、まだこの寝間着しか見てないけど、身に余る高級品だ。

 つまり、用意された物品類は、文句のつけようがない。

 けれど、予想と異なっていたのは。

 身の回りの世話についている使用人、実家の女性たちの話でも、昼間のヴァルターの説明でも、複数人つくのが常識ということのようだったけど。現実には、どうもあのナディーネ一人だけのようだ。

 いや別に、侍女一人というのが不満というわけではない。むしろ何人もにつかれたら、慣れない待遇にしばらく落ち着かないのではないか。

 これがもしもベティーナが一人でついてくれているのだとしたら、今後ずっと気楽で快適に暮らしていけるのじゃないかと思うほどだ。

 問題は、外の人たちの思う常識と実態が大きくずれている点、何か事情があるのか疑念を抱いてしまうということ、が一つ。

 それからもう一つ。

 あのナディーネ、ヴァルターとの受け答えを見ていると礼儀作法はしっかりしているようだけど、おそらく赤ん坊の世話をする経験と知識はない。

 それが専門でないヴァルターでさえ、昼食のとき『補助しましょうか』と訊いてきたくらいなのに。こちらは、僕が離乳食を零すのを見ても平然と放置していたのだ。

 まず、少しでも経験があれば、あり得ない態度だと思う。

 後から涎掛けの洗濯やテーブルを拭く手間が増えるなど、自分の仕事が面倒になる結果を思えば、単なる僕への嫌がらせだけとも思いにくい。たぶん単純に、赤ん坊の行動に対する想像力の欠如ではないか。

 いやその辺、本当にそうなのか、実際付き人は彼女一人だけなのか、明日以降を見てみないと断定はできないわけだけど。

 まあとにかくも、気にかかる。

 そこまで考えて、僕はそれ以上の考察をやめにした。

 とりあえず生活に不自由するというわけではないのだから、今後を見ていればいいのだろう。

 くり返すけど、侍女一人ということに不満があるわけじゃない。お互い慣れてしまえば、問題なくこれからやっていけるのかもしれないのだ。


 問題なのは、今。

 こんな益体もないことを考えるうち、ますます眠気が飛んでしまっていることだった。

 このままではどうにも当分、寝つけそうにない。

 仕方ない、と僕はごそごそとベッドから抜け出した。

 そのまますぐ脇の高い椅子によじ登る。

 向かったテーブルに、執務室から持ってきた本がある。改めて眠くなるまで、これを読んで過ごそうと思うのだ。

 幸か不幸かこんな真夜中でも、『光』加護があれば明るさに不自由はしない。

 夏の始まりの日で、夜中にこうしていても寒さを覚える心配もない。

 少し苦労して、重い板のページをめくり。さらにテーブルによじ登って、四つん這いになり。

 僕はその内容に目を凝らしていく。

 たちまち国内地図と、植物図絵とその説明文が暗闇から浮かび上がり、時間を忘れ去らせてくれた。


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