第11話 赤ん坊、執務をする 1
気がつくと、薄明かり。窓の縁に、外の明るみが射し込み出していた。
さすがにこのままだと、執務中に居眠りを始めてしまいそうだ。
思い、本を閉じて、僕はベッドに戻る。
やはりすぐに眠りは訪れないけれど。目を閉じて意識を
何だか記憶とも思索とも夢ともつかないものが次々頭をよぎり、安眠とはほど遠い感覚が過ぎていた。
遠く、朝一刻の鐘が鳴る。
おおよその慣習で言えば、これを合図に平民や貴族家の使用人たちは活動を始める。
しかし、王侯貴族家の者はまだ起き出してはいけない。お付きの者が朝の支度を終えて起こしに来るのを待つのだ。
――まあ、見た目赤ん坊の僕が、律儀に従う必要もないかもしれないけど。
領地ではそもそもこういう鐘もなかったので、おおよその目が覚めた時点で動き始めるのがほとんどだった。鐘を活動の規準にするようになったのは、王都に出てきてからだ。
そうは言っても僕の場合、目覚めてすぐに動き出せることはほぼなかった。まあつまり、背中にへばりついている妹のお陰で。
つらつら思い返していると、やたらと背中の辺りに空虚なものを覚え出していた。
それでもベッドでぼんやりしていると、扉の向こうで人が動く気配が聞こえてくる。この辺は決まり通り、ナディーネが務めを始めているのだろう。
一刻以上も、そんな物音が続いただろうか。
やがて扉が開かれ、ナディーネが顔を出した。
「お早うございます――起っきの時間です」
あまり抑揚のない声が、かけられる。
昨日からほぼ同じ調子なのだけれど、改めて聞いてみると何となく、呼びかけと言うより独り言に近い感じだ。
目を瞬いていると、掛け布団がめくられ。
侍女はまた陰の方に回って、新しい衣類を持ち出してきた。
昨日のものとは違う、昼間の活動用らしい。
上体を起こしている僕のすぐ脇に置き、侍女は後ろに下がる。
ひとしきりしょぼつく目を擦って、僕は着替えを始める。
やはり男爵家で用意したものより品質がよいらしい、ふわふわした肌触りだ。
何とか苦労の末、着衣。背中のボタンは一つしかはめられなかったけれど、まあいいや、と思う。
それでも用意された衣類、一つ足りない。
慎重にベッドの縁から滑り下り、僕は脇のテーブル下に寄っていった。
実家から持参してきたカバンを開き、布を一枚取り出す。母とイズベルガが作ってくれた、涎掛けだ。
紐を首の後ろに回し、苦労して結ぶ。
つくづく思うけど、赤ん坊の両腕はこんな背後に回して動かすようにできていない。背中ボタンも後ろ紐も、もともと自分で操作するように設計されたものではないと思う。
顔を上げると、ナディーネは軽く首を傾げて半分無感動な目を落としてきている。
「では、朝食にしましょう」
やはり独り言めいた声をかけて、僕を抱き上げる。
昨日の就寝前よりは少し改善された、両手でお尻と背中を支える抱き姿勢だ。
居間のテーブル前に座らされて、昨日と同様の食事。慎重に匙を動かし、半固体の離乳食を口に運ぶ。
今日は、零さず食べ終わることができた。
昨日のように眠くて堪らない状態でもなければ、最近はそうそう失敗することはないのだ。
洗面所に連れていかれて、洗顔も歯磨きその他も、すべてセルフサービス。昨日から、格段に自力でできることが増えた気がする。
ただ、一つ一つにかなり時間がかかってしまった。
昨日持ち込んだ本を抱えて、赤ん坊車に収まる。
後宮の出口扉には、もうヴァルターが待っていた。
「お早うございます、ヴァルター様」
「お早うございます。ルートルフ様を、お預かりします」
「よろしくお願いいたします」
やはりきちんとした受け答えで、車の持ち手が交代される。
会釈して、侍女は戻っていく。
当然ながら昨日の逆戻りで、絨毯の上を車は動き出す。
「よくお休みになれましたか、ルートルフ様」
「……ん」
「昨日は申し訳ありません。私の配慮が足りず、ルートルフ様を疲れさせてしまったようです。お身体は赤ん坊なのですから、見計らって休憩をお取りいただくようにと、言われていたのですが」
「いや」
「今後は、適宜お昼寝をしていただくことなども考慮しましょう。疲れたり眠くなったりしたら、遠慮なくお申し付けください」
「ん。つかれたら」
入った執務室は、無人だった。
そう言えば、戸口外に護衛も立っていない。
ヴァルターの話では、ゲーオルクは昨日の製鉄の件で領地と鳩便のやりとりをしていて、こちらに来るのは遅れるとのこと。
王太子は本来別の執務があるので、顔を出すかどうかは流動的らしい。
ということで、僕は机の上に板本を開いてもらう。
加えてヴァルターに指示して、メモ用の筆記用具を揃えさせる。
開いた本と筆記板を並べて。
「しつれい、するね」
断り、よいしょと机の上に這い昇る。
四つん這いになって、ペンを手に握る。
夜中の読書で気がついた箇所を、抜き書きしておくのだ。
全身運動で、筆記を進める。
しばらく書いて気がつくと、ヴァルターが横に立って覗き込んでいた。
僕の視線を受け、わずかに苦笑いの顔になる。
「いえ失礼ながら、読書のお姿だけでも驚きですが、こうしてペンで書くご様子を拝見すると、ただ驚嘆しかありませんね」
「そう?」
まあ当然、赤ん坊が筆記板の上を這い回りながら文字を書く姿など、うちの家族以外見た経験を持つ者はいないだろう。
「しかしこれ、かなり体力を消耗するのではないですか?」
「しかたない」
「書き抜くだけなら、必要箇所を指定していただければ、私がしますよ」
「お」
――その手は、考えていなかった。
「そのほうがはやい、か」
「ですね。その間にルートルフ様には、別の図鑑に取りかかっていただいて」」
「じゃ、おねがい」
こことここ、と指定すると、ヴァルターは該当ページに竹のようなものでできた栞を挟んでいく。
一通り指示を受け。ヴァルターは自分の机に筆記板を用意する。
「これはまた、各領地に植物見本の取り寄せを依頼することになりますか?」
「ん。できたら」
「では、ゲーオルク様にお願いして、手配しましょう」
「ん」
新しい図書館の本を持ってきてもらい。
僕はそのまま机の上に四つん這いで、ページに顔を寄せる。
見た目は異様でも、この姿勢がいちばん読むのに楽なのだ。
納得したのだろう、ヴァルターも苦笑いで放っておいてくれる。
午前中はずっと、そうした読書を続けた。
昼食の後もそれを続けていると。
いきなりドアが開き、無遠慮な咆哮が続いた。
「と、何だあ、その格好は?」
「どくしょ」
「とてもそうは見えねえぞ」
「こじんのかって」
「マジかよ」
ぶつぶつ喚きながら、今日初お目見えのゲーオルクは応接椅子にどかり腰を下ろしている。
はああ、とこれ見よがしの嘆息が続く。
「とても人には見せられない格好だな」
「ん。よそでいわないで」
「言っても誰も信じねえだろう。こっちが笑われるのがオチだ」
「かもね」
「お茶をお淹れしますか、ゲーオルク様?」
「ああ、頼む」
無表情顔にわずかに苦笑を混じらせて、ヴァルターはティーポットを用意している。
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