第19話 赤ん坊、一週間の勤務を終える
傍の机を借りて、文官は筆記板にメモをしている。
何度か頷いて、団長はこちらに向き直る。
「これが当たりなら、我が侯爵領はますますルートルフ君に感謝しなければならぬな。いや、貴重な指摘を、ありがとう」
「や」
何だか最近の習慣よりさらに増して、頭と口を酷使したので、疲労でぼんやりし始めている。
これ以上あまり、喋りたくない気分だ。
気づいて、父が額に手を当ててきた。
「疲れてきたんじゃないのか? ルートルフ」
「……ん」
「部屋に戻って休んだ方がいいな。君、頼む」
声をかけられて、ヴァルターが車を押して寄ってきた。
父が抱き上げて、箱の中に下ろしてくれる。
「それでは、失礼いたします」
「……ども」
「ちゃんと休むのだぞ」
父の声を背に聞きながら、部屋を出た。
自分の執務室に戻って、二刻ほど仮眠をとることになった。
昼寝から覚めても、何となく頭のぼんやりが晴れない。
机に向かって本を開いても、なかなか内容が頭に入ってこない。
無理をせず頭を休めていようかと考えていると、やや気忙しげにゲーオルクが入ってきた。
「殿下から呼び出しが来たんだが、まだいらしていないか」
「はい、本日はまだお見えになっていませんね」
ヴァルターの返事に、「そうか」と頷き、いつもの応接椅子にどかりと腰を下ろしている。
落ち着かない様子で何度か戸口方面を探っていた視線が、やがてこちらを向いてきた。
「製鉄所から連絡が来た。剣を一振り打ったので、こちらに送って寄越すってさ。そこそこ納得のいくものができたらしい」
「そ」
「来週初めには着くだろうから、殿下も交えて製品の出来を確認しようと思う」
「ん」
頷いてから、少し考える。
「さいしょうかっかと、きしだんちょも、みたがるとおもう」
「そうか。それなら、話を入れておこう」
「ん」
話しているうち、扉にノックがあった。
こちらも少し気が急く様子で、王太子が入ってくる。
「ああ、急に呼んでおいて、待たせて済まない。ここにとって緊急な話というわけでもないのだが、情報は共有しておこうと思ってね」
「何かあったのかい」
「ああ、外交上の件でね」
今や定位置になった席に着いて、学友と会話を始めている。
僕もヴァルターに運ばれて、その向かいの椅子に座らせてもらう。
「がいこう? やっぱり、りんごく」
「そう。ダンスクから、連絡というか、要求が入ってきた」
「要求? 穏やかじゃないな。貿易関係かな」
「ああ。簡単に言うと、小麦と砂糖について、ダンスクからの輸入量を前年実績より減らすな、価格は引き上げろ、ということだ」
「何ですか、その一方的な言い分は」ヴァルターが筆記板から顔を上げた。「輸入量も価格も、そんな勝手な要求で決められるものではないでしょう」
「それは当然だ。双方の話し合いで詰めるものだし、交渉が拗れるようなら五カ国の代表者を揃えた中で協議することになる」
王太子はこちらに顔を向けて説明を続ける。
一応、僕に分かるように話を進めてくれるつもりらしい。
「しかし事情をややこしくしているのは、リゲティ自治領の存在でね」
「ああ、小麦も砂糖もリゲティで生産しているからな。輸入量としてそれほど大きな割合ではないが」
「あちらの言い分としては、リゲティからの輸出額が減少するようなら、かの地に不利益を与えないとした先の停戦合意に抵触する、ということなんだな。もし五カ国協議に至ったとしても、それを盾に押し通すつもりなんだろう。しかもさらにそこに加わる事情として、昨年の夏の低温と水不足で、リゲティの小麦収穫量が減っているという事実がある。リゲティからの輸出の量は減るが、利益を減らさないように価格は上げよ、量が減った分はリゲティ以外の分で補え、と言いたいらしい」
「無茶苦茶なごり押しじゃないですか。自然現象による不作まで、こちらに責任を押しつける気ですか」
「これもまた話をややこしくしていることに、リゲティの水源はほぼカスケル川に頼っているわけだが、その上流は我が国を通っているからね。あちらの主張では、上流で水量を操作してリゲティに十分な量を送らなかったのが昨年の水不足を招いた、ということになる」
「無茶苦茶ですよ」
「確かにそうだが、これを五カ国協議の場で持ち出されたら、面倒なことになるかもしれんな。そんな水量操作とか、実際なかったかどうか、簡単には証明できない」
ヴァルターの怒声に、腕組みのゲーオルクが応じる。
何だか、興奮の元と宥め役が、いつもと逆のような気がするけど。
あるいは学院時代からの習慣で、誰かが興奮したら別の誰かが宥める、といった呼吸ができているのかもしれない。
「その辺、今ここでやり合っても仕方ないわけだけどね。あちらの主張をそのまま通すわけにもいかないが、そこは外交担当に任せるしかない」
「そうだな」
「こちらにとって重要なのは、もし事態が最悪の方に転んだとして、その不利益分を補うだけの方策をひねり出さなければならないということだ」
言って、王太子は僕の顔を見る。
「この部署としては、焦って空回りされても困るが、それなりに腹を据えて成果を出してもらいたい」
「ん」
「伝えたいことは、以上だ。それにしてもさっきから気になっていたのだが、ルートルフはかなり疲労が溜まっているようだね。明日、土の日はこちらの勤務は休みだ。十分身体を休めて来週に備えてくれ」
「ん」
「来週は――そうだ、ルートルフは近郊の畑や森を見に行きたいという希望だったね。ゲーオルク、そちらの手続きはどうなっている?」
「関係部署には申請を出している。それこそ来週には、どこかの許可が下りるんじゃないか」
「そうか。ヴァルターは許可が出次第、ルートルフを連れていく準備を進めてくれ」
「分かりました」
「こんなところかな。あとは今週の続きで、植物見本の確認はまだあるんだったな。それからゲーオルクの方からは、製鉄の見本が届くって?」
「ああ。剣を一振り、送って寄越すことになっている」
「うん、それは楽しみにしておこう」
そのような打ち合わせを終えて、王太子とゲーオルクは退室していった。
残された僕は、大きく息をついて応接椅子の背にぐったりもたれる。
「やはりまだ、かなりお疲れですね。今日はもう上がりにしてはいかがですか」
「ん。ここでしばらく、やすませてもらう」
「そうですか」
勤務終了の午後の十刻まで、あと二刻もない頃合いだろう。
僕にとって、ここで休むことも早上がりにすることも、一応可能だ。
何しろ赤ん坊に執務をさせるなど、前例があるはずのない中での取扱いなのだ、本人も周りも、どういう事態が生じるか予想のしようもない。
決められた勤務時間中体力が持たない、体調を崩す、などが起きた場合、随時休憩をとっていいし、早上がりをしてもいい、といった許可を事前にもらっている。現在の状況は、その権利を行使してもまったく問題なさそうだ。
つまり、早上がりにして後宮の自室に戻っても構わない、ということになるのだが。これがしかし、そう簡単にはいかないのだ。
この時間に後宮の入口まで連れていってもらっても、迎えのナディーネはまだ待機していない。ヴァルターや扉番が中に呼びに行くわけにもいかない。
後宮内の誰かを呼び出すためには、かなり迂遠な手続きで係の女官に連絡をとる必要があるのだ。よほどの緊急事態でない限り、これが速やかに伝達されるということは期待できない。
そういったことを考慮する限り、勤務終了時までこの椅子で休んでいるのがいちばん現実的だと思われるのだ。
座った姿勢で後ろにもたれ。ヴァルターに昼寝用の上掛けを腹から下へとかけてもらう。
目を閉じると、うつらうつらが訪れる。
何にせよ、僕にとって人生初めての一週間の勤務が、これで終了を迎えることになる。
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